アルキメデスの墓標

 現在の科学文明の根源とも言える古代ギリシアの数学・科学は、その始祖とされるターレス(B.C.600年頃)から、最後のギリシア数学者・哲学者と言われるプセルス(A.D.1100年頃)まで、実に1700年間も継続し、生き長らえたのである。しかし、その最後の数百年は、独創的発展が皆無であって、少数の学者による古典の注釈や教育が細々と続けられていたに過ぎなかった。この長い期間の中で、ギリシア数学の黄金時代と言えるのは、およそB.C.300~200年の100年間ほどであった。その中心地、エジプトのアレクサンドリアにおいては、エウクレイデス(ユークリッド)、アルキメデス、エラトステネス、アポロニオスといった巨星の如き大学者たちが次々に現われ、華々しい業績を残した。数学や科学に関して、短かい期間にもかかわらず、これほど輝かしい時代は、はるか後に、17~18世紀の西欧の科学革命の時代が到来するまで、他に類例を見ないものである。
 古代ギリシアの数学者たちのほとんどについて、その生い立ち、人となり、経歴など詳しいことが分かっていない。しかし、アルキメデスの生涯については、他者に比べれば、知られていることが多く、興味深い逸話がいくつも伝えられている。アルキメデスは、若年の頃、アレクサンドリアで学問の修行をし(そこで晩年のエウクレイデスに教えを受けたと推察されている)、その後、故郷のシラクサ(シチリア島)に帰って、ヒエロン王に仕えた。B.C.3世紀末の第2次ポエニ戦争において、シラクサはカルタゴ側についたため、ローマ軍の攻略を受け敗北した。シラクサ落城の際、ローマ軍の総司令官マルケルスは「アルキメデスだけは殺してはならぬ」と兵士たちに命じていたにもかかわらず、75歳のアルキメデスは野蛮な一兵士によって虐殺されてしまった。B.C.212年のことであった。生前、アルキメデスは、底面の直径と高さが等しい直円柱と、それに内接する球の、体積および表面積の比がともに3:2に等しいことを発見し、大いに満足していたが、この直円柱と球を描いた図を、自分の墓石に刻んでほしいと親しい者につね日頃話していた。この遺言は守られ、彼の墓標にはその図が、彼を称える詩文とともに、彫りこまれた。
 シラクサはローマ共和国の支配下に入り、さらに70年ほど後にはギリシア全土がローマの属州となった。ローマ人たちは、文学、演劇、美術、建築などのギリシア文化を存分に吸収し、やがて独自のローマ文化を育成していった。ローマはギリシア文化の後継者となった。けれども、残念ながら、ローマ人たちはギリシアの数学・科学の精神を少しも理解することができなかった。彼らは、数学については、建築、測量、土木工事などに必要な実用数学だけにしか関心がなく、今に残されている当時のローマの最優秀の学者たちの著作を見ても、数学に関しては取るに足りない低級なものばかりである。ローマは、ギリシアの数学および科学の伝統を継承し損ねたのである。いきおい、ギリシアの数学者たちには冷たい風が吹き始めた。これがギリシア数学の衰退の一因となって、かつては、エウクレイデスやエラトステネス、そしてアポロニオスが教鞭をとり、隆盛を誇っていたアレクサンドリアのムセイオンも次第に寂れていった。そればかりでなく、A.D.4世紀には、その昔過酷な迫害を受けていたキリスト教が、ついにローマ帝国の国教として認められ、それから後は、キリスト教徒たちによる異教徒への迫害が始まった。そして、ギリシアの数学者たちもその標的にされたのである。391年、ムセイオンの大図書館は、キリスト教徒の暴徒どもによる焼き打ちに会い、何十万巻という書物が灰燼に帰した。こればかりではない、ムセイオンの図書館は、遡ってはカエサルのエジプト攻撃(B.C.48~47年)、降ってはイスラム勢力による侵略(642年)を受け、併せて3度も火災に会っているのである。多量の貴重な書物がこうして失われたことは、惜しみても余りある痛恨事であった。
 話は元に戻る。アルキメデスの死後130年余りが過ぎた頃、ローマの政治家、文人として名高いキケロがシチリア総督に就任し、シラクサにやって来た。彼は、ローマ人には珍しく、数学や科学に理解を持つ人物であった。彼はアルキメデスについてもよく知っており、その墓にまつわる逸話も充分に承知していた。赴任早々、彼は、アルキメデスの墓を捜すために、シラクサのアグリジェント門の近くにある墓地を訪れた。彼は立ち並ぶ墓標をひとつひとつ注意深く調べていったが、アルキメデスの墓はなかなか見つからなかった。と、そのとき、墓地の一隅に、茨の生い茂る中に、少しだけ頭を出している小さな墓石が彼の目にとまった。急いで近寄って見ると、その墓石には、まごうかたなき円柱と球の図がはっきりと印されていた。さらに、彼が記憶していた墓碑銘が、半ば消えかかってはいたが、読めるほどに記されてあったのである。彼は、すぐに墓標を覆っていた茨を取り除かせ、墓石の表面をきれいに整えさせて、墓を元通りに修復した。後年、彼は、自分の作品の中で、感慨深げにそして誇らしげに述べている。「もし、このアルピヌム(キケロの出身地で、現在、ローマの東南約80Kmの町アルピーノ)生まれの男が見つけていなかったならば、かつてはギリシア世界でもっとも偉大な天才と謳われ、この上なく高名であった男の墓は、やがては埋もれ、誰にも知られないものになってしまっただろう」と。しかし、不幸なことに、ローマの数学に対する無関心は、キケロのこの美わしい行為をも無にしてしまうのである。さほど長くはない年月の後に、キケロが修復した墓は完全に消失した。そして、2000年の歳月が流れ去り、「アルキメデスの墓」は伝説となった......。
 さて、今からわずか40年前、1965年のことである。シラクサのあるホテルの地下の発掘が行われた。そのとき、驚くなかれ、アルキメデスのかの墓標が出土したのである。アルキメデスの死後、実に2200年にして、その墓標が再発見されたのである。


平成17年3月23日記す

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