古代アレクサンドリアの大図書館 - ギリシア数学史の側面

 紀元前333年、イッソスの戦いにおいて、マケドニア王アレクサンドロスは、ペルシアの大軍を打ち破り、その翌年、軍勢の一部をパレスティナとシリアに残して、エジプトへ進軍した。エジプト人は、アレクサンドロスを長年支配されていたペルシアからの解放者として、熱狂的に歓迎した。22歳の若き王は、重臣や兵士とともにナイル河の西の分流を下り、ファロス島を望む海辺の砂洲の村ラコティスにたどり着いた。彼は、ここに港を造り、新しい領土の首都を建設することを決意した。そこで、彼は、馬上から着ていたマントを砂の上に放り投げ、「この地に我が名を冠せる都を建てよ」と命じた。直ちに設計図が引かれ、多大の資金と労力が費やされて、やがてひとつの都市が完成した。栄光の都アレクサンドリアの誕生であった。しかし、アレクサンドロスは既に東方への大遠征に出立していたために、この町の英姿を見ることはなかった。彼は、長期にわたる遠征の後、東はインダス河にまで達する空前の大帝国を築き上げたが、紀元前323年、大軍を引き連れギリシアへの帰還の途中、古都バビロンにおいて病死した。享年32歳、その志を遂げずしての無念の死であった。アレクサンドロスの死後、彼の重臣たちの間で凄まじい権力闘争が始まった。彼の妻子はことごとく殺され、彼が築いた大帝国はいくつかの王国に分裂した。そのうちのひとつがエジプト王国であり、重臣プトレマイオスが初代の王となった。エジプトのプトレマイオス王朝の始まりである。そしてアレクサンドリアはエジプト王国の首都に定められた。後に、この都市は、地中海第一の貿易港として、また、華やかなヘレニズム文化の中心地として繁栄を極めた。その人口は紀元前300年頃には20万を越え、紀元後には100万に達しただろうと言われている。
 特筆に値するのは、ヘレニズム時代を通じて、プトレマイオス王朝が学術研究に対して与えた莫大な財政上の援助である。初代の王プトレマイオス1世は、少年の頃マケドニア宮廷において王子アレクサンドロスとともに、ギリシア最高の哲学者と謳われた、かのアリストテレスの手厚い教えを受け、学問を尊ぶ人物に成長していた。アレクサンドロスは東方への遠征の際に、測量技師、地理学者、植物学者、動物学者、文法学者、修辞学者、歴史学者を引き連れて行った。その目的のひとつは、東方征服の途上で収集した情報や証言をつぶさに記録し、それらを一箇所に集中、保管して、爾後の学術研究に資することであった。そのアレクサンドロスの遺志を、彼の命により造られた新都において実現するために、プトレマイオス1世は、アテネにおけるアリストテレスの学校リュケイオンをモデルとして、学術研究所を創設した。その研究所は、学問芸術の守護神である9人の女神ムーサ(ミューズ)に捧げられ、「ムセイオン」と名づけられた。ギリシア各地からあらゆる分野の優秀な学者たちが呼び集められ、ムセイオンは、プラトンが創始したアテネのアカデメイアを尻目に、ヘレニズム世界で最高の学問的水準を保持する学府に成長していった。当時、ムセイオンにおいて研究されていた学問の分野は、文学、修辞学、言語学、歴史学、自然哲学、数学、天文学、地理学、医学、動物学、植物学などであったが、この研究所は教育機関も併せ持ち、その運営上の根本思想、教育方針やカリキュラムなどにおいて現在の大学(University)とさほど大きな差異がなく、今日の大学の原型がここに見受けられるのである。その学問探求の精神は、数学をとりわけ重視したプラトンやアリストテレスの影響を強く受けていたため、純粋数学の研究がムセイオンの学術研究の基礎を成していた。そして、プトレマイオス1世の治世からおよそ100年間は、ギリシア数学の黄金時代と称される稀有の時代となったのである。この時期には、エウクレイデス、エラトステネス、アポロニオスのような大数学者たちが、ムセイオンの教授陣に綺羅星の如く、名を連ねていた。偉大な天才アルキメデスも青年時代にはここで学び、晩年のエウクレイデスの教えを受けたと推測されているし、また、アルキメデスはエラトステネスとごく親しい仲であった。
 ムセイオンは大きな付属図書館を持っていた。プトレマイオス2世は、図書館長に、世界中到る所からできるだけ沢山の本をかき集めるように命じた。そこで、館長は、各国の君主に手紙を出して、その国のあらゆる書物を送って欲しいと依頼した。プトレマイオス王朝の書物の入手法は強欲であこぎなものであった。それを物語る次のような伝説がある。プトレマイオス3世は、アレクサンドリア港に碇泊しているすべての船に本の積荷があるかないかを調べさせ、そのとき見つけたすべての本を没収するように命じた。すぐにそれらの写本が作られ、持主には実物ではなく写本が返されたのである。また、同じくプトレマイオス3世の時代に、図書館は、写本のためと称し、アテネの人々から貴重な多くの本を借り受けたが、その担保として支払った金貨を放棄して、それらの本を返却せず、我が物とした。このように、なりふり構わぬ手段を用いて本を収集した結果、ムセイオンの図書館は、40万巻とも50万巻とも言われる厖大な数のパピルスの巻子本を所有するに至った。
 ここで、「パピルス」について説明しておきたい。パピルスとは、本来、ナイル河畔に多量に群生している水草の名称であるが、それから作られる一種の紙をもパピルスという。パピルスはこの水草の髄から作られた。1世紀中期のローマの博物学者プリニウスの著作「博物誌」に、その製法が書かれている。この水草の髄を薄く細長い片に切ったものを、ナイル河の水に浸し、糊を加えて、二つの層に重ねて方形状に並べる。このとき、上下二つの層の細片の繊維の向きが直交するようにしておく。そして、これを圧搾機にかけて水分を除去し、天日で乾燥させた後、さらに木槌で叩いてしわを延ばすと方形の紙状のものが得られる。(ナイル河の水を用いるのは、水に含まれる粘土の微粒子が糊の効力を強化するためであるという。)これらを次々に糊で継ぎ合わせて巻物にするのである。巻物の幅と長さはまちまちであるが、平均して、幅25cm、長さ8mほどであろうか。用いる材料が髄の中心に近いものほど高級品であって、パピルスはいくつもの等級に分けて売られていた。パピルスはエジプトの重要な輸出品でもあった。パピルスは、エジプトにおいては遅くとも紀元前2000年の頃には用いられており、紀元前6世紀以降はギリシア各地で使用されていたことが確認されている。パピルスの欠点は、湿気に弱く、破れ易いなど耐久性に欠けることであった。そのため、たびたび写本の作り直しをしなければならなかった。各地で長い間使用されてきたパピルスも、4世紀頃には、以前にペルガモン(現在トルコ西部のベルガマ)で発明され、パピルスよりはるかに丈夫で、この頃ようやく安価になっていた、羊皮紙にとって代わられることになった。それに伴って、本の形態も巻子本から冊子本に変わっていった。以後、中国で発明された紙が普及するまで、およそ1000年間にわたって、本の材料の主役は羊皮紙となった。しかし、パピルスが全く用いられなくなったわけではなく、その後も、例えば、ローマ教皇庁では伝統的にパピルスを使用し続け、11世紀半ば頃にパピルスに書かれた教皇の勅書が現存しているのである。
 エジプト王国はプトレマイオス1世以来およそ300年ほど続いたが、その末期の王朝は権力闘争に明け暮れていた。紀元前48年、ローマの執政官ユリウス・カエサルがアレクサンドリアに上陸した時期は、王女クレオパトラとその弟プトレマイオスとが王位を争って対立している最中であった。カエサルは直ちにその調停に乗り出し、両者の共同統治という裁定を下した。ところが、軍事的に優位にあったプトレマイオス側はそれを受け入れることができず、そのとき少数の兵しか持っていなかったカエサルに対して軍事行動を起こした。これがアレクサンドリア戦争の始まりであった。カエサルは、海への出口を断たれることを恐れて、援軍の到着を待つ間に、攻撃の主力を敵の軍船に集中させた。彼はアレクサンドリア港に碇泊中の50隻のエジプト軍船に火をかけるように命じた。その火は、折しも吹き荒れていたエテジアン(地中海東部に吹く夏の風)に乗って、大火となって市街に燃え広がり、炎は図書館にも達した。古代のアレクサンドリアの図書館は、もとより、現在のような図書目録のシステムを持っていなかったので、その蔵書の量は大まかにしか見積もられていない。アレクサンドリア戦争で焼失した書物の量は厖大なものであったに違いないが、それがいかほどのものであったか、一部分が失われたのか、それとも、プルタルコスの「英雄伝」が語っているように、全焼したのか、それは定かではなく、未だに議論が続けられている。
 アレクサンドリア戦争に勝利し、クレオパトラをエジプト女王に据えた後、ローマに帰還したカエサルは、紀元前44年、子飼いの者たちを中心とする14人の陰謀者どもに暗殺された。カエサルの遺言は、後継者に彼の若い養子オクタヴィアヌスを指名していたが、カエサルの側近でその後継者を自任していたアントニウスは、これにはなはだしく不満を覚えた。両者は対立する形となり、しばらく協力し合う時期もあったが、宿命的なこの二人の対決はいよいよ避くべからざるものとなっていった。ローマ共和国の東半分がアントニウスの勢力範囲、西半分がオクタヴィアヌスのそれとなった。東方に居を移したアントニウスは、ローマに妻子を持ちながら、エジプト女王クレオパトラの色香に迷い、愚かにも彼女と二重結婚した。アントニウスは粗野で知性に欠ける男であったが、クレオパトラは、教養豊かな女性で、多数の言語を操り、また、数学の能力にも秀でていたという。それだけに、彼女は、アレクサンドリア戦争の際の火災により、ムセイオンの大図書館の書物が大量に失われてしまったことを大層嘆いていた。それを見たアントニウスは、その埋め合わせに、彼の支配領域内にあったペルガモン(当時のペルガモンは極めて高い文化を持つ都市であった)の図書館の全蔵書20万巻を没収し、それをそっくりクレオパトラに贈った。その書物は、ギリシアの主神ゼウスによく似たエジプトの神セラピスを祭る神殿セラペイオンに収納され、かくも無体なやり口によって、アレクサンドリアの大図書館は復活した。紀元前30年、アクティウムの海戦において、ついにオクタヴィアヌスはアントニウスを破り、ローマを再統一した。追いつめられたアントニウスとクレオパトラは自殺し、ここに300年続いたプトレマイオス王朝は倒れたのである。オクタヴィアヌスはローマの初代皇帝アウグストゥスとなり、これより後は、豊かなエジプトの地はローマ皇帝の直轄領となった。エジプト王国滅亡後、ローマ支配の初期においては、エジプトは大混乱の状態に陥った。当然、ムセイオンにおける学術研究も大きな損害をこうむり、その後、往昔の隆盛を取り戻すことはなかった。ギリシア数学史では、エジプト王国の滅亡をもって、前期アレクサンドリア時代の閉幕とみなすことが通例となっている。
 紀元前2世紀中葉、ギリシアを支配下に置いて以来、ローマは、ギリシア文化(ヘレニズム文化)を大いに尊敬し、積極的に取り入れてきた。しかし、ローマ人たちはギリシアの数学や科学の精神の価値をいささかも認識することがなかった。彼らは、数学については、日常の計算のための算術のほか、建築、測量、土木工事などに必要な実用数学だけを学んだ。彼らはローマのコロッセウムやガールの大水道橋など多くの壮大な建築物を造り上げたが、これらを建造するためには、特に高度な数学を必要とせず、大まかな数値計算だけで用が足りたのである。ローマの大建築家ウィトルウィウス(紀元前20年頃活躍)が使っていた円周率の近似値は 25/8=3.125であったが、実用上はこれで十分に通用した。ところで、彼は200年も前にアルキメデスが得ていた、より良い近似値 22/7=3.142・・を知らなかったのであろうか。たぶん、彼は知ってはいたけれども、計算を楽にするためにこの近似値を用いていたのであろう。ローマ人は、実用性をこの上なく重んずる民族であって、論証の精神を全く理解することができなかったが、この点において、彼らは、実用とは無縁の理論そのものをこよなく愛したギリシア人と、際立った対照を示している。結局、ローマ人にとっては純粋数学は無用の長物であった。したがって、後期アレクサンドリア時代には、すなわち、ローマによる支配が始まってからは、もはやムセイオンの数学者たちはプトレマイオス王朝時代のような潤沢な財政的援助を受けることを望めず、ムセイオンの運営の基盤は次第に弱くなり、その規模も漸次縮小していったが、それでもアレクサンドリアはその後も長期にわたって数学の中心地であり続けた。紀元後160年頃に、天文学、三角法、地理学などで活動した、そびえ立つ孤峰の如き大学者プトレマイオスもムセイオンで研究を行ったことを示す記録が残されている。さらに、3世紀半ばから4世紀半ばまでの期間に、数論と代数学のディオファントスおよび幾何学のパッポスが現われ、彼らもアレクサンドリアで活躍した。彼らのすぐれた業績はギリシア数学の復活とみなされ、この時期は、エウクレイデス、エラトステネス、アルキメデス、アポロニオスらが巨大な足跡を残した「黄金時代」に対比させて、ギリシア数学の「白銀時代」と称されている。しかし、ギリシア数学の輝きが見られるのもこの時代が最後であり、パッポスの著作はギリシア幾何学への「レクイエム」であると言われてきた。3~4世紀には、多くの地域で、戦争、反乱、暴動、疫病、飢饉などが頻発し、それらが貿易の著しい衰退を招いて、アレクサンドリアの経済は崩壊した。4世紀末には、アレクサンドリアの伝統たる数学への財政的支援は完全に絶えてしまった。その時まで、少しばかりの補助金によって辛うじて支えられていた学問研究の活力は恐ろしいまでに低下していった。
 そればかりでなく、ちょうどその頃、学問の衰退をさらに促進させるような事態が出来した。それは、391年、ローマ皇帝テオドシウスによりキリスト教がローマ帝国の国教に指定されたことである。それ以降、異教は禁止されることになり、「錦の御旗」を得たキリスト教徒は異教徒を迫害し始めた。アレクサンドリアにおいては、神殿セラペイオンを護っていた異教徒たちとキリスト教徒の集団との間に乱闘がたびたびくり返されたが、ついに同年、神殿は、狂気の暴徒どもの襲撃に会い、破壊され炎上した。そして、神殿に収蔵されていた30万巻を越えるすべての蔵書が灰燼に帰した。かくして、それまで連綿と引き継がれてきたアレクサンドリアの大図書館の歴史とアレクサンドリアの数学の組織的な伝統がついに断ち切られることとなった。けれども、それから後も、ごく少数の学者によって、古典の注釈や個人的な教育を、細々とではあるが、何とか継続しようという努力が続けられてはいたのである。そのような数学者として知られているのは、テオン(405年死)とその娘ヒッパティア(415年死)である。才媛の誉高かったヒッパティアは学者として父を越えていたという。彼女は新プラトン学派のアレクサンドリア支部長を務めていた。新プラトン学派とは、3世紀中頃に現われたギリシア哲学の流派であって、アテネのアカデメイアを本拠とし、プラトンの思想を無謬の権威としてこの上なく尊重したことから、この名称で呼ばれているが、この学派はその学説上キリスト教と厳しく対立したため、キリスト教徒に激しく憎まれた。彼女自身は、新プラトン主義者ではあっても、決してキリスト教を排斥していたわけではなかったが、当時アレクサンドリアにおいてくり広げられていた複雑な政治闘争に巻きこまれたあげく、とうとう凶暴なキリスト教徒の集団に襲われ、聞くも悲惨な最期を遂げた。彼女のむごい死とともに、実に700年の長きにわたり継承されてきたアレクサンドリアの光輝ある数学の伝統はついにその終焉を迎えたのである。
 7世紀中葉、新興の宗教イスラム教を信奉するアラブ人の大軍が、当時ビザンツ帝国の属領であったシリア、エジプトを次々に攻略し、7世紀末にはモロッコにまで到る北アフリカ一帯を蹂躙して、その支配下に収めた。さらに、彼らはジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島の大部分をも征服し、アフガニスタンのカブールにまで及ぶ東方の地域と併せて、広大なイスラム帝国を創り上げた。アレクサンドリアは642年に陥落し、以後この由緒ある町も、キリスト教色、ギリシア色を一掃され、イスラム化、アラブ化の道を歩んでいった。その後、何度か支配勢力が変わりながらも、アレクサンドリアはイスラムの都市として長い歴史をたどり現在に至っている。今日、エジプトのアレクサンドリア市を訪ねて見ても、いにしえの栄光の都アレクサンドリアは、過去に幾度となく戦禍を受け、また大地震による崩壊もあって、その大部分は深さ数メートルの地下に眠っているのである。そして、この町には、歴史上名高い古代の旧跡は多くは存在していないのであるが、ひとつの注目すべき遺跡が市の小高い丘の上に掘り起こされている。それは、かつて凶暴なキリスト教徒の集団により破壊された、かのセラペイオンの遺構であった。盛時においては威容を誇っていたであろう大神殿も、今は見る影もなく崩れ去り、そこにはただ一本の高い石柱が屹立しているのみである。また、その薄暗い地下には、遠き時代の書庫と思われるいくつかの部屋が、暗褐色の荒壁を剥き出しにして、陰鬱な様相を呈し並んでいるのである。往日のアレクサンドリアの学問の伝統を偲ぶよすがとなるものは、今はただこれだけである。しかしながら、これはかの智の宝庫ムセイオンの遺構ではない。かつて、叡知の光をもって地中海世界をあかあかと照らし、ヘレニズム文化の中心として、ギリシア世界の最高学府として、盛栄を謳歌したムセイオンは、今では、それが建っていた場所すら定かではなく、その昔日の面影をいささかなりとも伝えるような僅かな痕跡さえも留めてはいないのである。


平成17年5月19日記す

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