ギリシア数学概観(平成17年浩洋会例会講演)

 ギリシア数学の黎明期に現われ、今日まで、その不朽の名を伝えられている、二人の数学者がいる。ミレトスのターレス(B.C.620?~550?)およびサモスのピタゴラス(B.C.580?~500?)である。彼らの生涯について知られていることは極めて少ない。彼らの著作は一つも残っていないし、そもそも、彼らが書物を著したかどうかも全く不明なのである。しかし、彼らの業績は、後世の学者の著作から、ある程度は推定できるのである。その後、ギリシア数学は、アテネとアレクサンドリアにおいて大きな発展を遂げ、その間何度か衰退期はあったものの、ギリシア人は、他国の支配を受けた苦難の時代においても、古くからの数学を受け継ぎ、その伝統を後世に伝え続けていった。
 実は、ギリシア数学の終末の時期を特定することは非常に難しいのである。東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの命によって、アテネのアカデメイアが閉鎖された時(A.D.529年)、あるいは、アラブのイスラム勢力により、アレクサンドリアが占領された時(A.D.642年)をもって、ギリシア数学の終焉とする見方がある。しかし、この二つの出来事の後にも、ギリシア人の国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)は長らく健在であったのであり、ギリシア数学は、この栄光の都において、それ以後もなお生き長らえていたのである。事実、11世紀には、コンスタンティノープルに、最後のギリシア哲学者・数学者と称されているプセルスがおり、大変な名声を博していた。プセルス以後も、コンスタンティノープルにおいて、ギリシア数学が続いていたことは、文献により確認されている。例えば、13世紀から14世紀にかけて、パキュメレス、バルラーム、ガレヌス、プラヌデス、ラブダスといった学者たちが、算術、幾何学、三角法、天文学などの書物や論文をいくつか遺しているのである。確かに、これらの著作には、数学のさらなる発展に寄与するところは全く見られず、この時代のコンスタンティノープルの数学の低調さを物語っているが、ギリシア数学は、なおこの地で、細々とではあっても、その流れを止めることはなかったのである。それは、おそらく15世紀初期までは続いていたに違いない。とすれば、ギリシア数学がその流れを完全に断ち切られたのは、オスマン・トルコの攻略により、コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡した1453年ということになり、驚くべきことに、ギリシア数学は、始祖ターレス以来、実に2000年余にわたって、連綿と引き継がれていったことになるのである。
 驚くのは、そればかりではない。1453年といえば、その頃イタリアにおいては、既にルネサンスの活動が始まっており、ヨーロッパの数学者たちは、イスラム世界から輸入した古代ギリシアの知識を学び取って、わがものとして使いこなし、ギリシア数学の延長としての代数学を鮮やかに開花させる直前にあった。すなわち、コンスタンティノープルで死に絶えたはずのギリシア数学は、以前にヨーロッパにおいて蒔かれたその種子が芽吹き、既に見事な成長を遂げていたのである。さらに、その後、幾何学の分野においても、デカルトがユークリッド幾何学を包括する解析幾何学を完成し、やがて、ニュートン、ライプニッツへと続いて、ついに17~18世紀の数学・科学革命を迎えることになった。そして、この流れは、一度も停滞することなく、現代の科学文明(数学も含む)にまで達しているのである。こうしてみると、ギリシア数学は、その発祥以来、それが進展した場所の違いこそあれ、種々の障害に会いながらも、2500年余の長きにわたり、ほとんど切れ目なしに、現代まで継承されてきた、と考えてもよいのである。
 ターレス、ピタゴラスより後のギリシア数学の歴史は、次のように、六つの時代に区分して考えると理解し易い。
 (1)アテネの全盛時代 (B.C.5世紀)
 (2)プラトン、アリストテレスの時代 (B.C.4世紀)
 (3)アレクサンドリア時代前期 (B.C.3世紀、黄金時代)
 (4)アレクサンドリア時代中期 (B.C.2世紀~A.D.2世紀、応用数学の時代)
 (5)アレクサンドリア時代後期 (A.D.3~4世紀、白銀時代)
 (6)衰退期 (A.D.5~15(?)世紀)
(1)の時代は、中心地がアテネであって、デモクリトス、ヒッピアス、ヒポクラテス、アナクサゴラス、ゼノンらが活躍した。この時期は、三大問題の解決が大きな課題であった。(2)の時代も中心地はアテネであった。プラトンやアリストテレスは数学に対して特別の学術的貢献をすることはなかったが、プラトンがアテネに創設した学校アカデメイアは、ギリシア数学の中心であった。この時代で最も偉大な数学者は、プラトンの弟子で、比例論を展開したエウドクソスである。(1)および(2)の時代を通じて、当時の数学の文献は、写本も含めて、ほとんど残っていない。上記の時代区分の中で、特筆に値するのは、(3)の黄金時代であり、この時期は、中心地アレクサンドリアにおいて、エウクレイデス(ユークリッド)、アリスタルコス、アルキメデス、エラトステネス、アポロニオスらのような大学者が輩出し、ギリシア数学が最も輝いた未曾有の時代であった。(4)の時代には、大天文学者プトレマイオスが現われ、その大作「アルマゲスト」は、コペルニクスが「天球の回転について」を著すまで、実に1400年近くもその権威を保った。(5)の時代におけるディオファントスおよびパッポスの活躍は、ギリシア数学の復活と言われ、この時代は白銀時代と称されている。しかし、この後間もなくギリシア数学は長い衰退期に入るのである。
 ギリシア数学は、(6)の時代に限らず、それ以前のどの時代においても、一時的に衰退あるいは停滞を見せる時期が何度かあった。その衰退の原因、あるいはその発展を阻害した要因として、次のような理由を挙げることができる。
(ⅰ)戦乱(アレクサンドリア戦争、ローマ・エジプトの戦争、ゲルマン民族の侵入、イスラムの侵攻、種々の内乱など)
(ⅱ)経済的事情(戦乱、暴動、疫病、飢饉などによる商業活動の衰退、支配者による経済的援助の欠如など)
(ⅲ)ローマの実用精神
(ⅳ)キリスト教徒による迫害
(ⅴ)ギリシア数学自体が持つ内的要因
これらのうち、(ⅴ)については説明が必要である。 ギリシア数学は、論理の絶対的な厳格さを備えているが、それこそがギリシア数学の主要な特色であり、大きな長所であった。ところが、論理の厳格さを追求する余り、論理によって正確に説明できないときには、そのような概念を絶対に認めようとはせず、そこから先へは一歩も足を踏み出せないという状況に陥ってしまった。せっかく無理量を発見していながら、それを完全に合理的な形で説明することができなかったために、無理数を数として認めず、実数を構成しようとする試みも一切なかった。厳密な論理を自らに厳しく課していたことが、一時的に論理を無視してでも、未知の領域に大胆に踏み入って、探検してみようという意欲を失わせ、数学の進歩を阻害したのである。
 ギリシア数学においては、幾何学と代数学(数論)とが厳格に分離され、前者に一方的に重点が置かれていた。従って、すべてを幾何学的基準により考えたために、代数学的様相が排除され、数量の計算方法の公式化を不可能にしてしまった。その結果、バビロニア式の手軽な代数学は、面積を利用する技術に基づく、重苦しい幾何学的代数学に改造された。当時のギリシアの才能ある数学者のみが行うことができた幾何学的代数学の、文章で表現されている手に負えない計算を、現在では、基本的な代数記号を用いた簡潔な公式に置き換えることによって、容易に理解することができるのである。このように、現代におけるような公式を全く持っていなかったギリシア人たちが、この難解な数学を後世に伝えるためには、書物を残すだけでは不十分であって、指導者たちの口述による継続的な伝承が絶対的に必要であった。戦乱や経済的援助の打ち切りなどの外的要因により、この口述による伝承が妨害されたときに、偉大な先駆者の著作を読み解くことが困難となり、まして、それを越えることは不可能となったのである。

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