現代文明の流れ (平成18年浩洋会例会講演)

 明治初期以来、百数十年間というもの、日本人は、それまで培い蓄積してきた自分自身の文化のかなりの部分を徐々に捨てつつ、欧米文化を受け入れ、欧米諸国に追い着くことを目標として、それに没入していった。欧米文化の中でも、とりわけ科学文明の影響は極めて大きく、現在、我々はその恩恵なしには一日も過ごすことができないほどである。第二次世界大戦後において、欧米文化に対するアメリカの貢献度は特に際立っており、現在、世界の文化の中心はアメリカであるとさえ言ってよいであろう。しかし、「新興国」アメリカの歴史は浅く、欧米文化とは言うものの、その歴史と精神からして、それは「ヨーロッパ文化」と呼んでも差し支えないものである。すなわち、我々は、現在、ヨーロッパ文化の流れの真っ只中に置かれていて、その強い力のままに押し流されているさなかなのである。そこで、我々は、それから逃れることのできない強力なヨーロッパ文化とは一体どんなものなのか、その成り立ちや流れがどのようになっているのか、を考えてみなければならない。このような途方もない大問題をこのような小文で論ずるのは、針の穴から天を覗くようなものであり、無謀な試みであることは承知している。それを試みても、大雑把なことしか書けず、恥をかくようなものであるが、このようなことを考えること自体は価値がないこともなかろうと思っている。
 ヨーロッパ文化の流れを遡ってゆくと、約2500年前、古代ギリシア文明が栄えた時代に辿り着く。さらにその水源を訪ねれば、ミノア、ミケーネ、バビロニア、ユダヤ、フェニキア、エジプトなど切りがないので、ここでは、ヨーロッパ文化に関する考察を古代ギリシア時代以降に限ることにしておく。ヨーロッパ人は、二千数百年の長きにわたって、孜々営々とヨーロッパ文化という大神殿を造り上げてきたのであるが、この大神殿をしっかりと支えている四本の大きな柱がある。それは、「ギリシア文化」、「ローマ文化」、「キリスト教」、「ゲルマン民族」という四本の柱である。これが古くから述べられてきた定説であった。そこで、これから、この四本柱のそれぞれが、いかにヨーロッパ文化を支えてきたかについて大まかな歴史的考察をしてみたい。
 しかしながら、近世の、特に20世紀に入ってからのヨーロッパ文化の発達状況を見る時、その非常な速さ、地域および分野の広がりの極めて多様なること、凄まじいばかりの高度の進歩を考えれば、現代までのヨーロッパ文化全体を、旧来の定説に従って、四つの要素に分解して論じようということは、非常に単純であり、時代遅れであるようにも思われる。現代文明はあまりにも発達し過ぎたので、その極まりなく複雑多岐な分野のすべてを四つの要素のいずれかの影響として説明することは、不可能であり、また無意味なのではないだろうか。なぜならば、現代文明は、ある段階から、ギリシア、ローマ、キリスト教などの影響から脱して独り歩きをし始め、異常なまでの発達を遂げて、現在も猛烈な勢いで自己増殖を続けているとも考えられるからである。従って、本講演の題目は「現代文明の流れ」となっているけれども、その内容においては、いわゆる現代文明は除外され、その対象は古代ギリシア文明の時代から現代文明発展の時期にさしかかる頃までの文化の歴史的流れといったような意味合いに解釈して頂き、これから我々が取り上げようとしている時代は、真の意味の現代にまでは及ばないということにしたい。


(1) ギリシア文化
 アテネは、紀元前5世紀半ばには、ギリシアの知的活動の中心地であった。その頃、神話や英雄叙事詩を素材とする文学や演劇の作品が多く作られ、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えた。ミロのヴィーナスのような端正なギリシア彫刻、パルテノン神殿を始めとする堂々たる建築物など、その素晴らしさや後世への影響について多弁を弄する必要はないだろう。また、ギリシアの絵画も高い水準を保っていたのであって、その作品が全く残っていないので確かなことは分からないが、その絵画技術は、ギリシア正教のイコンを通じて、はるか後の世のイタリアの初期ルネサンス絵画にまで伝えられたのである。一方、紀元前370年頃に、プラトンがアテネに創設した学校「アカデメイア」には、アリストテレスを始めとする多くの学者や学生が集まり、それは哲学や数学の研究の中枢であった。このアカデメイアは、紀元529年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスによって閉鎖されるまで、実に900年もの間、存続したのである。
 アレクサンドロス大王の死(紀元前323年)の後、その帝国が崩壊して間もなくヘレニズム文化の時代が訪れ、文化の中心はアテネからエジプト王国のアレクサンドリアに移り、その地に、プトレマイオス1世は、今日の大学に相当する研究所「ムセイオン」を創設した。そこではあらゆる学問が研究されたが、とりわけ、数学、科学の著しい発展が注目され、そこに見られる論理精神は、現代の科学の精神にまっしぐらにつながっているのである。たとえば、現代数学の精神は、ユークリッドの「原論」に見られるような古代ギリシア数学の精神と同一であると言ってもよい。その意味で、現代数学は古代ギリシア数学の延長であると考えてもよいのである。昨年の講演において述べたように、ギリシアはローマの支配下に置かれ、ギリシア数学は、ローマ人に理解されなかったために、次第に衰退していったが、絶滅することはなかった。それは、東方の都コンスタンティノープルにおいて15世紀初め頃までは細々と継続されていたし、他方、アラブ人が、それを輸入し自家薬籠中の物として使いこなし、さらに進展させていたのである。そしてアラブ人は、それをルネサンス運動が始まる1~2世紀前に、当時は文化水準の非常に低かったヨーロッパ人に手渡してくれたのであった。それ以来、ヨーロッパ人は、古代ギリシアの数学を精力的に研究し始め、ルネサンスとそれに続く科学革命の時代を経て、今日まで一度も停滞させることなく発展させていったのである。従って、ギリシア数学は、それに係わった人と場所については様々に変化したが、実に二千数百年にも及ぶ長期間、切れ目なしに続けられていたことになるのである。
 従来、ヨーロッパの歴史家たちは、アラブ人のギリシア数学・科学への貢献に対し、非常に低い評価しか与えてこなかった。すなわち、アラブ人は、独創性に乏しく、ギリシアから取り入れた数学や科学をそのまま保存した後、それをヨーロッパ人に引き渡すという役割しか持たなかった、と言うのである。これは極めて不当な評価であって、アラブ人の文献がヨーロッパにもたらしたインド・アラビア記数法や、代数学、三角法、天文学、医学など、インドやバビロニアの影響を受けた可能性があるので、アラブ人の完全な独創とは言えないにしても、それらは古代ギリシア時代の水準を越えていることが確認できるのである。


(2) ローマ文化
 かつて、テヴェーレ川沿岸の一集落に過ぎなかったローマは、徐々にその実力を蓄え、紀元前150年頃の第三次ポエニ戦争でカルタゴに勝利した頃から、急激にその勢力範囲を拡大していった。ギリシアもローマの支配下に入れられたが、ローマ人はギリシア文化を尊敬し、努めてそれを学び吸収した。その影響を受けて、ローマは、文学、美術、建築、土木などの諸分野において、極めて高い水準の文化を創り上げたのである。さらに、ローマは、優れた行政機構を備え、高度な「ローマ法」を発展させ、かつ強大な軍事力を持ち、遂に世界に冠たる一大帝国を築き上げたのであった。広大な領土を有したローマ帝国は、一時期、人間の歴史上最も幸福な時代と言われるほどの豊かで平和な社会を達成し、「ローマ帝国は永遠なり」という観念が生まれた。そしてこれは、後々、いわゆる「帝国理念」、すなわち、かつての栄光のローマ帝国の再現という理念を醸成し、それが、カール大帝の「フランク帝国」を始めとして、オットー大帝に始まる「神聖ローマ帝国」、さらにはナポレオンの「フランス帝国」やヒットラーの「第三帝国」などを生ぜしめ、現代に至るまで、良きにつけ悪しきにつけその影響が大きかった。
 しかしながら、拡大しすぎたこの大帝国は統治困難となり、紀元395年、東西に分裂した。それ以前から、帝国の北の国境ライン川やドナウ川を越えてやって来るゲルマン諸族の侵入が絶えず、ローマ帝国は多難な時期を迎えていた。ローマ帝国の衰退の原因は種々議論されているが、大きな要因は財政的困難と軍隊の弱小化であろう。雪崩を打って押し寄せる蛮族の攻撃に耐えられず、476年、遂に西ローマ帝国は滅亡した。けれども、東ローマ帝国はこれ以後もなお1000年ほど生き延びるのである。襲来したゲルマン諸族は、西ローマ帝国の領土を分割し、いくつかの王国を建設した。これらゲルマン諸王国は、国の行政管理に当たっては、西ローマ帝国の行政機構、法律、社会制度をそのまま模倣した。そして、ほとんどすべての王国が、ローマ人の言語(ラテン語)を公用語として採用し、自らの言語を捨てていった。このようにして、ゲルマン諸王国の使用したラテン語の徐々に方言化したものが、さらに、イタリア語、スペイン語、フランス語などのロマンス諸語に変化したのである。一方、純正ラテン語も、後にルネサンス時代になって、ローマの古典文学復興の気運に乗り、復活させられ大いにもてはやされて、それ以降学問のための用語として近代に至るまで使用されている。かように、ローマの言語ラテン語はヨーロッパ文化の発達に重大な影響を及ぼしたのである。
 ローマは偉大なる法治国家であった。種々の法律が蓄積され、膨大なローマ法の体系が形成されていった。それは、行政上の必要性から、西ローマ帝国の滅亡後、中世ヨーロッパのいわゆる暗黒時代においても生き延びた。北イタリア諸都市に多くの法律学校が作られ、その代表的なものが成長、昇格して12世紀中期に「ボローニャ大学」となったのである(ボローニャ大学自身は1088年の創立と称している)。ヨーロッパ最古の大学の誕生であった。法学のボローニャ、神学のパリ、この両大学はヨーロッパの数ある大学の中の双璧として、長らく最高至上の権威を誇った。


(3) キリスト教
 1世紀末頃に、新約聖書が四人の作者によって別々に書かれた。4世紀初頭まではキリスト教徒は大きな迫害を受け続けたが、ローマ皇帝コンスタンティヌスの命により、313年、遂にキリスト教は公認された。もはや殉教者は出なくなったが、キリスト教徒たちの尊敬の的であった殉教者の地位を継ぐ者として、孤独な苦行を目的とする修道士が現れ、修道制が生まれた。529年にはイタリア中部の山中に有名な「モンテ・カッシーノ修道院」が建立され、この頃より修道院が文化の推進役を担うようになった。教会にも付属学校(これを「スコラ」といった)が作られ、長い間修道院と教会が知的生活の中心であり続けた。12世紀以後、ヨーロッパ諸所に大学が創設され、それ以降は文化の中心が大学に移っていったが、パリ大学のように、大学は教会の付属学校が発展、昇格したものである場合が多かった。従って、教育の起源、大学の起源を探って行くと、教会すなわちキリスト教に行き着くのである。
 帝国に侵入した蛮族が建国したゲルマン諸王国は、やがて次々にゲルマンの異教を捨てキリスト教に回心していった。そして、ローマ教皇の指令により、教会の多くの使徒たちがライン川を越え、種々の障害に会いながらもゲルマンの未開の奥地にまで赴き、命がけの伝道活動を行った。こうした尽力の結果であるキリスト教の普及は、野蛮な民族の順化、未開地の文化水準の向上に大きな効果をもたらし、さらに、将来、西方社会を精神的に一つにまとめる上で極めて重要な役割を果たした。その西方社会の統合を実現したのが、「西ローマ帝国の復活」と言われるカール大帝の「フランク帝国」(800年)であった。それは、ローマ教皇を象徴とするキリスト教世界を政治的にも統合し、キリスト教に基づく新たな社会を構築しようというものであった。これが「ヨーロッパ世界」の誕生であり、中世のヨーロッパ文化の発展の基礎をなすものであった。フランク帝国の誕生は、キリスト教的要素、ローマ的要素、ゲルマン的要素の融合であり、「ヨーロッパ」の歴史はここから始まったのである。カール大帝は、多くの優秀な人材を側近として集め、「宮廷学校」を作って、学問を大いに奨励した。カールは武人であったがゆえに若い頃は無教養であったらしいが、自らこの宮廷学校の熱心な生徒となった。ローマの古典が復活し、文運の興隆したこの時期は、その王朝の名をとって「カロリング・ルネサンス」と呼ばれているが、大帝の死後も文化活動は続いた。この時代に作られた「カロリング小文字」は、現在使用されているラテンの小文字体の原型となった。
 教会の付属学校(スコラ)で研究されていた神学を「スコラ学」というが、12世紀頃、スコラ学とアリストテレスの哲学を融合することが課題となっていた。それを解決したのがトマス・アクィナスの著作「神学大全」であった。これは中世哲学の大金字塔であったが、その完成度の高さゆえにそれ以後の新しい思想の発展にとって大障害物となった。近世の学者たちはこれを無用の長物として軽蔑軽視した。しかし、中世ヨーロッパにおいてスコラ学という論理的思考の体験を経ていたからこそ、後年の科学革命も起こり得たとして、現在はスコラ学の意義が見直されている。
 キリスト教が中世の文学、音楽、絵画、彫刻、建築などに与えた影響は計り知れない。中でも、北フランスを発祥の地とする教会のゴシック建築の美事なことは特筆に値する。その他、キリスト教がヨーロッパ文化に影響を及ぼしたものとして、「十字軍」の遠征(11~13世紀)や「宗教改革」(16世紀)などがあるが、ここで叙述する余裕がないのは残念である。


(4) ゲルマン民族
 5世紀末に、ライン川の彼方に住んでいたゲルマン人が、大挙してローマ帝国領内に侵入し、フランク、東ゴート、西ゴート、ブルグンド、アングロ・サクソンなどの諸王国を建国した時、以前から住んでいたローマ人たちは、ゲルマン人たちによって追放された訳ではなく、その後長く彼らと融和して暮らし続けた。旧帝国領内に住んでいたゲルマン人たちの人口はいかほどのものであったろうか。歴史家たちの推定によると、どの王国においてもゲルマン人の人口は全住民の5%を越えることはなかっただろうということである。これは驚くべき数字であって、ゲルマン人はこれほどの少数でもって大多数のローマ系住民を統率したのである。それが可能であったのは、むろん、ゲルマン人たちが軍事的に優位にあったからである。しかし、また一方では、王国を統治するに当たって、ローマ人の協力が絶対的に必要であった。ローマ時代の行政組織や財政組織は可能な限りそのまま残され、ラテン語は公用語として用いられ、文官はすべてローマ人、法律を編纂したのもローマ人であった。このようにして、新来の支配者であるゲルマン人は多数のローマ人に囲まれて、次第にローマ化していったのである。ただ、アングロ・サクソン王国のみは、大陸と切り離された遠隔の地にあったために、ローマ化を大きくは受けず、独自の道を歩んでいった。
 カール大帝の死後、大フランク帝国は後継者争いのため分裂し、弱体化していった。同時に、諸地方のゲルマンの豪族たちが、勢力を増強し始め、大荘園を所有し、封建制の時代が始まった。9世紀半ばのことである。「封建制度」はゲルマン民族古来の「従士制度」を起源とするものであると言われている。これは、主君より軍馬や武器など必要な一切のものを給与された従士は、主君の恩顧に対し忠誠をもって報いるというもので、これが発展し、主君より恩貸地を受けるまでに変化していった。封建制度より、武闘に専念する「騎士階級」が生まれた。その数は非常に多く、このような階層は、ギリシア、ローマ、ビザンティン、イスラムのどの世界にも存在したことがなかった。その出現は西ヨーロッパキリスト教社会に固有な独自の現象であった。その後、この騎士階級が世襲制を獲得して、特殊な身分である「貴族層」を形成し、「聖職者層」と並んで社会における上位の階層を占めたのである。
 10世紀末頃から11世紀初めにかけて商業が発達し始め、やがて都市が生まれ、商業に従事する者として「市民階級」が発生した。間もなく、彼らの経済力は貴族層を圧倒し、彼らは社会の上位にのし上がり、政治にも参加するようになっていった。こうして、都市の持つ経済的余裕は文化の向上を促進し、やがて、ルネサンス文化の結実を見ることになった。14世紀初期イタリアに始まり、ヨーロッパ全域に拡大した「ルネサンス」こそ、ヨーロッパ社会が、中世の価値観を打破し、革新的な思想の下に、飛躍的に諸々の文化の推進を実現した歴史上未曾有の出来事であった。その活動は実に3世紀にわたり継続した。このルネサンス運動に携わったのはゲルマン人の末裔であり、その後に続く、現代科学の基礎を作った「科学革命」(17世紀)を起したのも、さらに18世紀末期に始まる「産業革命」を遂行したのも彼らであった。このように、西ローマ帝国滅亡後の西方世界の歴史の流れにおいて、主役を演じたのはゲルマン諸国家であり、ヨーロッパ文化の形成に直接係わったのは、昔は蛮族として蔑視されたゲルマン人の末裔であった。その事実を考えれば、良い例えではないかも知れないが、「ヨーロッパ文化」は、「ギリシア文化」と「ローマ文化」という二つの上質の食材に、「キリスト教」という強烈なスパイスを加え、「ゲルマン人」が独自の調味料を用いて作り上げた料理のようなものである、と言うことができる。

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