ポアンカレ予想の解決

 フランスの数学者アンリ・ポアンカレによって提出され、およそ100年の間、解けないまま懸案の問題となっていた「ポアンカレ予想」が、遂にロシアの数学者グリゴリ・ペレルマンによって肯定的に解決された。その論文(複数)が発表されたのは2002~2003年であったが、その後約3年をかけて綿密な検証が行われた結果、昨年2006年にこれらの論文の正しいことが確認されたという。正確に言うと、彼の論文は、ただ単に「ポアンカレ予想」だけを証明したものではなく、この予想を一つの系として含む、より広い「サーストンの幾何化予想」を解決したもので、非常にスケールの大きな論考であった。この間の詳しい事情がWikipediaに説明されているので、参照して頂きたい。日本の新聞でも報道されたように、アメリカの科学誌「サイエンス」は、この業績を昨年1年間のすべての自然科学の成果のうちで最優秀のものであると発表した。数学の研究成果がこのような評価を受けるのは極めて珍しいことである。そして、同年開催された国際数学者会議において、ペレルマンにフィールズ賞が授与された。
 今や、「ポアンカレ予想」は、解決されて「ポアンカレの定理」となったが、一体それはいかなるものか、述べてみると次のような命題となる。
        「単連結な3次元閉多様体は、3次元球面に同相である。」
この命題は、最初から最後まで数学用語を含み、一般の人々にはそれを理解することがかなり困難であると思われる。かく言う私自身も始めのうちは、軽率な誤解から、この命題を正しく把握していなくて、浩洋会の木村光一君(昭和53年卒)に質問したところ、後日彼よりメールがあり、実に明快な説明を頂いた。これを読んだら私の疑念は立ちどころに氷解し、正しい理解を得ることができた。ここで、木村君に感謝の意を表したい。この定理の意味するところは極めて重大であると思ったので、その内容の深さ、面白さを浩洋会の皆さんにも味わって頂きたく、この場をお借りして私の感ずるところをご紹介しようという次第である。表現力の貧しさから、私の意図するところが十分に伝わらないかも知れないが、一般の人とは違い、大学の数学科において数学的思考の訓練を受けた経験を持つ皆さんには、この文の内容は容易に理解できるものである。
 始めに、この命題に用いられている用語の意味を確認しておこう。まず、3次元多様体とは、その各点が3次元ユークリッド空間R3 における開球に同相な近傍を持つような、連結なハウスドルフ空間のことである。次に、それが単連結であるとは、その中のすべての閉曲線を連続的に変形して1点に縮めることができることである。例えば、開球は単連結であり、トーラス(ドーナツ)の内部は単連結ではない。さらに、閉多様体とは、境界を持たずコンパクトな多様体を意味する。また、2つの空間XとYが同相であるとは、XからYの上への同相写像、すなわち、XからYへの全単射かつ両連続な写像が存在するときにいう。さらに、球面の説明が必要である。以下、便宜上、常に球面の中心を原点O、半径をrとして説明する。 まず、1次元球面とは、座標平面R2 において方程式x2 +y2 =r2 で表される点集合、すなわち円周を指す。 2次元球面とは、座標空間R3 において、方程式x2 +y2 +z2 = r2 で表される点集合、すなわち、文字通り普通の意味の球面である。3次元球面とは、4次元の座標空間R4 において、方程式x2 +y2 +z2 +w2 = r2 で表される点集合のことである。 以下、同様にして、一般にn次元球面をも定義することができる。n次元球面をSn で表すことにする。
 さて、「ポアンカレの定理」に登場する3次元球面S3 は、4次元空間の中の点集合
            { ( x, y, z, w ) | x2 +y2 +z2 + w2 = r2
であるから、その図形的なイメージを直接的に得ることは不可能であるが、これをR3 に射影することによって間接的に図像化することは容易なのである。以下に、それを説明してみよう。3次元球面の方程式より、
             x2 +y2 +z2 = r2-w2
が得られ、これは、w ( -r ≦w ≦r ) を固定するとき、R3 において原点Oを中心とし、半径 r(w ) = √(r2-w2)の球面Sw を表す。そこで、w をその変域-r ≦w ≦rの中を変化させてみる。w =-r のときは、Sw は1点(原点)を表す。w w =-r より増加してゆくと、r(w ) は増加し、w = 0 のとき最大となる。そのとき、Sw はOを中心とし、半径r の球面
            S0 : x2 + y2 + z2 = r2
となる。その間、Sw は閉球
            B : x2 + y2 + z2 ≦ r2
を膨張しながら埋め尽くしている。さらに、w が w = 0 より増加するときr(w ) は減少し、w = r のときSw は1点(原点)となる。この間、Sw は収縮しながら閉球B を再び埋め尽くす。ゆえに、w が-r からr まで変動するとき、Sw は閉球B を2重に埋め尽くすことになる。このとき、Sw が変動することによって得られるR3 内の立体、すなわち、2重に重なった閉球Bにおいて球面S0を同一視して得られる立体が、3次元球面S3 に他ならない。厳密に言えば、S3 は、この立体そのものではないが、これに同相なので、同じものと考えても差し支えないのである。
 この立体をより具体的に表示するには、Bのレプリカを2つ用意し、B1B2 とするとき、B1B2 の境界である球面S0 の上の座標が同じ2点を同一視して得られる立体B1U B2 を考えればよい。これが3次元球面S3 である。平たく言えば、S3 は、B1B2 をそれらの境界S0 に沿って糊付けすることによって得られるのである。この「糊付け」は実際にはイメージしにくいので、さらに次のように考えれば分りやすいだろう。 Bの原点O以外の1点Pに対し、半直線OP上にあって、OP・OP*= r2 を満たす点P*をPの鏡像(S0 に関する)という。PがB の境界S0 の上にあるときはP*= Pであり、PがBの内部にあるときはP*Bの外部にある。また、P= OのときはP*=∞ (無限遠点)とする。 この方法は函数論における鏡像や無限遠点の考え方と全く同じである。このとき、写像f : P →P*は同相写像となる。Bの鏡像B* = f (B) は、Bの外部、S0 および∞ の和集合であり、Bと同相である。 さて、前述のように、S3 = B1U B2 であったが、B1 の鏡像B1* を作れば、B2B1* と同相なので、S3 = B1U B1* としてよい。 ただし、B1B1* の境界S0 を前述のように同一視(糊付け)するのである。従って、S3B1B1 の外部と∞の和集合となるので、S3 = R3 U {∞}、すなわち、3次元球面S3 は3次元ユークリッド空間R3 の1点コンパクト化に他ならないことが分かった。かくして、我々は、S3 を、その境界を糊付けした2つの球体もしくは3次元ユークリッド空間の1点コンパクト化として、具体的に捉えることができたのである。これらが3次元球面の視覚的なモデルである。
 さて、話は変わるけれども、我々が住んでいる宇宙空間は3次元多様体なのである。そもそも多様体の本質的な概念はリーマンに始まった。リーマンは、宇宙空間は3次元ユークリッド空間に局所的に同相な位相空間すなわち3次元多様体である、と考えたのであり、これが多様体の概念の起源であった。もとより、このリーマンの考えは仮説であるが、これが誤りであるという根拠もないので、我々はこの仮説は正しいと考えることにしよう。さらに、昔から、宇宙空間には境界がないと言われてきたが、これも正しいと信じることにしよう。このような前提の下に、もし宇宙空間が単連結かつコンパクトであるならば、今や「ポアンカレの定理」によって、我々は、宇宙空間は3次元球面に同相であると結論することができ、その位相構造が決定されるのである。実は、かつてアインシュタインも自分の理論における宇宙空間のモデルとして、この3次元球面を取り上げていたという。しかも、彼はその直径の数値まで概算していたらしい。むろん、アインシュタインの時代には、これは仮説的な理論であった。ところが、「ポアンカレの定理」が証明された今、この理論は仮説の域を脱することになるかも知れないのである。すなわち、我々は、宇宙空間のイメージとして、少なくとも位相的には、前述のような3次元球面の具体的なモデルを採用することができるかも知れないのである。このような現実性を帯びた宇宙観形成への寄与こそが、「ポアンカレの定理」を導いたペレルマンの業績が科学誌「サイエンス」において昨年中の自然科学の成果のベスト・ワンに選ばれた最大の理由であろう、と推測している。もちろん、100年間も解けなかった難問を解決したということもその有力な理由ではあるが。
 しかしながら、宇宙空間が、単連結であるか否か、コンパクトであるか否か、については、今のところ、これらを確認するための天文観測上の方法や情報は、皆無ではないようだが、注目すべき成果はほとんどないと言ってよいであろう。宇宙の起源は大爆発であったとするビッグバン説が真実であるとして、たぶんビッグバンの初期には宇宙空間はコンパクトであったであろうから、現在もそれはコンパクトのままであろうと思われる。ビッグバンがいかに激しかったとは言え、それが連続的に進行しただろうというのがその根拠である。一方、単連結性については、いかなる推定も困難である。ビッグバンの最初期には、宇宙空間はたぶん単連結であったと思われるが、爆発の激しさにより、空間の異なる場所がくっつき合って、複雑な複連結空間に変形していったかも知れないのである。けれども、いかに複雑な空間が形成されようとも、それはコンパクトかつ有限連結であり続けてきただろうという希望的推測をしてみよう。このときは、「ポアンカレの定理」を当てはめることはできないが、それは宇宙空間を視覚的にイメージするためのヒントを与えてくれるのである。すなわち、宇宙空間は、3次元球面のモデルであった、その境界を糊付けした2つの球体あるいは3次元ユークリッド空間の1点コンパクト化において、異なる2箇所から球体を抜き取り、その2つの球面を糊付けしてバイパスを作る操作を有限回行って得られるものではないかと想像されるのである。しかし、3次元多様体の有りようは複雑であって、今述べたように2つの球体を抜き取る代わりに、2つのトーラスを抜き取り、その境界を糊付けするという操作も有り得るので、かなり複雑な空間を考えなければならないであろう。今まで、宇宙空間の構造そのものについては、茫洋茫漠として手がかりの少ない問題ではあるし、決定的な議論はほとんどされてこなかったのではないかと思う。けれども、こうして、「ポアンカレの定理」のお蔭で、今まで正体不明であった宇宙空間の具体的なモデルを、全くの幻想ではなく、ある程度の実感をもって想い描くことができるようになっただけでも、人類の宇宙像の形成史上まことに画期的なことだと思うのである。これこそ、「ポアンカレの定理」の天文学への極めて有意義な応用であり、この定理が自然科学において大きな重要性を持つゆえんであろう。我々の宇宙空間に対する認識のさらなる充実を願って、3次元多様体の理論の大いなる発展を期待しようではないか。
 以上のように、独断と偏見、誇張と歪曲、浅慮と速断、誤解と妄想に満ちた説明を長々と続けてきたが、暇にまかせてこのように根拠薄弱なことをとりとめもなく書き綴っていると、私も「徒然草」吉田兼好よろしく、

            「 つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひて、
              心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、
              あやしうこそものぐるおしけれ  」

という心境に陥りそうである。しかるに、また一方では、唐突ながら、若かりし頃よく口ずさんでいたドイツの古い学生歌次のような一節を思い出すのである。

            「 Die Gedanken sind frei   思想は自由なり 
              wer kann sie erraten    誰がそれをしかと言い得よう
              sie fliehen vorbei       それはすぐに逃げ去る
              wie nächtliche Schatten   夜の幻影のように 」

この詩が唱っているように、人の思考は自由に飛翔し一つ所に留まることなくたちまち姿を消してしまい、それを形あるものに作り上げることは難しい。私がこの文章を書いているのも、頭に浮かんだ想念が消え去らないうちに、それを言葉で表現しておきたいという強い願望があるからである。我々人間にとって実に「思想」は生命であり、「思想」なしに人間は存在し得ない。しかし、「思想」とは言っても、それは何も高級で難解なものを意味しているのではない。例えば、我々の身の回りを見渡し、観察して考えてみよう。そこから「思想」が生まれるのである。より具体的には、我々の住んでいる世界の成り立ちがどのようなものであるか、その一部分でもよいから、自分なりの手段と考え方により、理解し認識すべく努めること、すなわち、どんな形でもよいから、自らの世界観を持つために努力すること、それが我々の人生の目的の一つである。というのが、日頃述べていたように、私の昔からの持論である。これも一つの「思想」であるが、幻想あるいは妄想に近いこの解説文もその一環であることを、皆さんにお分かり頂きたいと思う。

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