続・フィレンツェの秘話~コジモ1世の子供たち (平成24年浩洋会例会講演)

 小高い丘の上にあるミケランジェロ広場の展望台から、アルノ川の向こうに広がるフィレンツェ市街を見渡すとき、真っ先に眼に飛び込んで来るのは、「花のサンタ・マリア大聖堂」の巨大なドームである。その教会の左側に接している高い「ジョットの鐘楼」に目を移すと、その奥に少し隠れるようにして小さなドームが見える。それは、かつてフィレンツェを長年支配していたメディチ家の私有教会であった聖ロレンツォ教会に付属する「君主の礼拝堂」のドームである。この礼拝堂はメディチ家の霊廟であって、そこには歴代の当主とその家族の人たちが眠っている。
 2004年、歴史学、考古学、医学の立場から、ここに眠るメディチ家の人々の遺骸を科学的に調査するために一大企画「プロジェクト・メディチ」が立ち上げられた。フィレンツェ大学とピサ大学を中心として組織された科学調査隊により、長期にわたり、一族の数十体に及ぶ遺骸がX線撮影や病理学的検査によって詳しく調べられることになったのである。このような試みはこれが初めてではなく、昔から何度か行われており、近年では1945年に約10年をかけてメディチ家の墓所の発掘調査が実施された。しかし、当時の科学技術は現代のそれに比べようもなく、しかも、検査に当たっては、今日では考えられないような乱暴な処置が取られていたという。今回は、現代の格段に進歩した科学技術による精密な検証が、この有名な一族の歴史にさらに興味深い多くの情報を付け加えてくれるに違いない。
 実は、昨年の浩洋会例会で行われた講演「フィレンツェの秘話」の第1話「大公妃ビアンカ・カペッロ」において述べられた、毒殺説を裏付けるために行われた大公の遺骸調査も、このプロジェクトの活動の一環として実施されたものであった。

 1.ジョヴァンニとガルシア
 ルネサンス最盛期に、その活動の強力な後援者として隆盛を誇ったメディチ家の嫡流(兄脈)も、16世紀中期には血脈が途絶え、その後継は傍流(弟脈)に属するコジモ・デ・メディチの手に委ねられることになった。1537年、弱冠17歳にしてフィレンツェ公となったコジモは、思慮深く決断力に富み、武人としても統治者としても極めて有能な君主であって、後にメディチ家中興の祖と称えられるようになるのである。しかし、その性格は異常に激情的で、しかも冷酷無比なものであった。やがて彼は大公の地位を得て、初代トスカーナ大公コジモ1世となった。現在、フィレンツェ市のシニョリーア広場を訪れると、ヴェッキオ宮殿のそばに、彼の騎馬像が立っているのを見ることができる。コジモは、スペインの大貴族でナポリ総督として権勢を振るっていたドン・ペドロ・デ・トレドの娘レオノーラを娶り、11人の子を儲けた。生まれた順に名を挙げると、マリア、フランチェスコ、イザベッラ、ジョヴァンニ、ルクレツィア、ペドリッコ(幼時死亡)、ガルシア、フェルディナンド、アンナ(幼時死亡)、ピエートロ、アントニオ(幼時死亡)である。このうち、長男フランチェスコと8歳下の弟フェルディナンドとの確執については、既に昨年の講演「フィレンツェの秘話」第1話において取り上げられている。本節で述べるのは、次男ジョヴァンニとガルシア、この4歳ちがいの兄弟にまつわる悲劇である。この二人が死亡したのはともに1562年であり、しかも彼らの母親レオノーラが死んだのも同じ年なのである。この事実の裏には何かが隠されているのか、何とはなしに悲劇の匂いが漂ってくるではないか。
 ある史料によれば、1562年1月、コジモ1世は妃レオノーラや息子のジョヴァンニ、ガルシア兄弟を伴い、狩を楽しむためピサに滞在していた。ある日、ジョヴァンニとガルシアが狩のことで口論を始めたが、二人は次第に激高してゆき、ついに弟ガルシアが剣を抜き兄の太腿を刺してしまった。直ちにジョヴァンニは病院に送られたが、受けた傷は重く、間もなく息を引き取った。ジョヴァンニを特別に可愛がっていただけに、父コジモの怒りは凄まじく、ただひたすら許しを乞うガルシアに「我が家にカインはいらぬ」と言い放ち、剣を抜きざま息子を斬り殺してしまったのである。「カイン」とは、旧約聖書に登場する兄弟殺しを象徴する人物である。このとき、ジョヴァンニは19歳、ガルシアは15歳であった。母親レオノーラは、もともと身体が弱く、結核を患っていたが、愛する息子たちの突然の変死に大きな衝撃を受け、心痛のあまり二人の死からわずか10日後に亡くなったという。幼時のガルシアと並んで立っているレオノーラの肖像画が残されているが、彼女は、あたかもこの悲劇を予感していたかのように、憂いに沈んだ表情を見せている。
 公式文書においては、この母子三人は、1562年12月、マレンマ地方に滞在中にマラリアにかかり死亡したことになっている。確かに、このマレンマ地方は、当時は未開拓の大湿地帯があって、大量の蚊が発生しマラリアの多発地であったが、実際は家庭内の大惨劇がもみ消され、表向きにはこのような形で片付けられたのである。この事件の後、コジモ1世は精神的にかなり不安定になったように思われる。数多くの女性とスキャンダルを引き起こしたり、それを長男のフランチェスコに告げ口したお気に入りの召使を殺したり、いろいろな不祥事があったと伝えられている。ちょうどその頃、コジモの仕事場である庁舎が高名な建築家ヴァザーリの設計により建築中であったが、彼はこの新庁舎と自分の住居であるピッティ宮殿とを、アルノ川を跨ぎ距離1kmにも及ぶ長い回廊によって連結させた。この有名な「ヴァザーリの回廊」は1565年に半年足らずで完成した。コジモは、毎日この回廊を歩いて、誰とも顔を合わせることなく通勤することができたのである。さしもの剛胆なコジモも、当時は強度のうつ病にかかり、自己嫌悪、対人恐怖症に陥っていたのではないかと推測される。もちろん、回廊を造らせたのには、刺客の襲撃から身を守るためという理由もあったのであろうが。
 前文で述べた「プロジェクト・メディチ」が調査を予定していた墓のうち、最初の発掘が2004年5月に始まった。それはコジモ大公夫妻とその息子ジョヴァンニとガルシアのもので、四人とも君主の礼拝堂内の同じ場所に埋葬されていた。ところで、去る1966年にトスカーナ地方に降った豪雨のためアルノ川が大氾濫を起こしたことがあり、大量の泥水がフィレンツェ市街を襲って、この地下墓所にも流れ込んでいたのである。しかし、その後この墓地は調査されることなくそのまま放置されていた。泥水が棺の中にまで浸入し、遺骸に重大な損傷を与えているのではないかという懸念があった。いざ墓所の蓋を開けてみると、確かに泥は墓穴の底に積もってはいたが、棺の中にまでは及んでいなかった。幸いなことに遺骨はすべて無事であった。そのあとは、写真撮影、X線撮影、遺骨の復元、DNA鑑定やその他分子レヴェルの分析のための標本採取などが行われ、大きな成果が期待されている。

 2.三人の女たちの悲劇
 1945年の調査においては、発掘された一族の遺骸の中に、コジモ1世の娘を含む三人の女性のものが含まれていなかったと報告されている。三人とは、コジモの長女マリア、次女イザベッラ、および六男ピエートロの妻レオノーラ(コジモの妻と同名)である。彼女らは、まことに悲運の星の下に生まれてきたと言うしかない女たちで、生前のみならず死後までも不当な扱いを受け、一族の墓所内ではあるが、誰にも気づかれないような場所に埋葬されたのである。19世紀半ばに行われた発掘の際に、女性の遺骨が納められた三つの棺が発見された。既に墓泥棒に荒されていた上に、棺に名前が書かれてなく、これといった決め手がないものの、これらがこの不幸な三人の女性の棺であろうと推測された。しかし、その後の調査にもかかわらず、未だに確定的なことは分かっていない。おそらく、この三人は、メディチ家の内部で行われた三つの残虐な犯罪を隠蔽するために、秘かに葬られたものと考えられる。今回の「プロジェクト・メディチ」の調査をもってしても、三人の遺骨を特定することは困難であろう。
 さて、この三人の女たちをめぐる悲劇とは次のようなものであった。
 コジモの長女で第一子のマリアは、幼い頃から容姿が愛らしく、コジモの大のお気に入りであった。長じてマリアは、こともあろうに、メディチ家の若い従僕と恋愛関係に陥ってしまった。1557年、マリアが17歳になったある日のこと、邸内で彼女とその従僕が抱き合っている所へたまたまコジモが通りかかったのである。怒り狂った彼は即座に娘を斬殺してしまった。最愛の娘を惨殺するとは何ともむごい父親であるが、「可愛さ余って憎さ百倍」ということであろう。愛する娘を卑しい男に盗られたという嫉妬心が原因だとする説もある。相手の男はそのとき一緒に殺されたのか、あるいは逃亡したのか、しかとは分からないが、遠くへ逃げたとしてもいずれは連れ戻され殺されてしまったに違いない。哀れなマリアが10歳くらいの頃に描かれた肖像画が残されている。それを見ると、整った顔立ちに憂愁の色がにじみ出ており、既にこの年齢にして、彼女の背負っていた暗い運命が表情に表れているかのようである。
 コジモの次女イザベッラは、ローマの大貴族パオロ・オルシーニと結婚したが、この結婚はうまくいかなかった。非常に粗暴な夫を嫌い、イザベッラは夫と別居してメディチ家の宮殿で暮らしていたが、彼女は夫の従弟トロイーロ・オルシーニと愛し合うようになってしまった。一方、夫のパオロは、後の教皇シクストゥス5世の甥の妻ヴィットリア・アッコランボーニとねんごろな関係になっていた。ヴィットリアがパオロをそそのかして、二人は結婚するために邪魔な者を皆殺しにしようという計画を立て、それが実行に移された。まず、ヴィットリアが刺客を雇い夫を殺害させ、その後パオロが別の殺し屋にトロイーロを殺させた。そして、パオロはイザベッラを甘言をもってあざむき、彼女を秘かに別荘に呼び出して絞殺したのである。かくして、二人は首尾よく結婚にこぎつけたが、その後パオロは、甥を殺された教皇シクストゥス5世に追及され、逃亡先のヴェネツィアで刺客に殺された。一方、ヴィットリアは遺産を狙ったパオロの弟によって殺害された。
 イザベッラが殺されたと同じ年、1576年にメディチ家に関わるもう一つの殺人事件が起きている。コジモ1世の六男ピエートロはろくでなしの放蕩者で、妻レオノーラを全く顧みなかった。彼女はないがしろにされた寂しさと不満を晴らすために、多くの愛人をつくった。彼らのうちの一人が競争相手を決闘で殺し、エルバ島に流されたが、その後フィレンツェに連れ戻され、処刑された。レオノーラは愛人の死を嘆き悲しんだが、それに腹を立てたピエートロは彼女をメディチ家の別荘に呼び出して、剣で刺殺したのである。この年の2年前にコジモ1世は病死しており、後継者として長男のフランチェスコが大公となっていたが、彼はこのような醜聞や殺人事件にも無関心で、「フィレンツェの秘話」第1話で述べられたように、好きな化学実験や錬金術に没頭していたという。ピエートロが罰せられることはなかった。

 参考文献
1. ドナテッラ・リッピ&クリスティーナ・ディ・ドメニコ(市口桂子訳)「メディチ家の墓をあばく~X線にかけられた君主たち」(白水社)
2. 中島浩郎「図説 メディチ家~古都フィレンツェと栄光の王朝」(河出書房新社)

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