雑話「イタリア・ルネサンスの3巨匠」(平成25年浩洋会例会講演アブストラクト

 14世紀初期にイタリアのフィレンツェに興り、西欧諸国でおよそ300年間続いた文化活動「ルネサンス」において、美術の分野での巨匠と言えば、その当時の多士済々の芸術家たちの中で、真っ先にその名を挙げられるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)、ミケランジェロ・ブオーナローティ(1475~1564)、ラファエッロ・サンティ(1483~1520)の3人であろう。ルネサンス美術のシンボルのような、この天才たちは、まるで奇蹟が起こったかのようにイタリアに同時期に現れ、それぞれにフィレンツェを始めとして諸国で大活躍し巨大な足跡を残した。この3人は互いに顔見知りであった。自信家で傲岸不遜なミケランジェロは、23歳も年上のレオナルドに敬意を払わず、事あるごとに反発し喧嘩を吹っ掛けた。これに対し、レオナルドは「生意気な奴だ」と思っていたに違いないが、あるとき「空気まで描ける絵の方が彫刻よりも上だ」と言ったところ、彫刻の得意なミケランジェロは「裏側まで同時に表現できる彫刻の方こそ絵よりも上だ」と反論したという話は有名である。最も若いラファエッロは、2人の先輩たちを非常に尊敬していた。彼は、まずミケランジェロに会って、弟子入りを志願したが、そっけなく断られた。そこで、彼はレオナルドに指導を頼みに行くと、レオナルドは彼を気に入ったらしく、懇切丁寧に絵の技法を教えたという。
 レオナルドは、公証人の子として、フィレンツェにほど近いヴィンチ村で生まれた。しかし、正規の結婚による子ではなく、母は農民の娘で、父の使用人であった。そして、レオナルドがまだ幼い頃に、母は子と引き離され実家に帰されてしまった。冷酷な父はわが子を認知せず、賢い子であったろうに、彼は初等教育しか受けさせて貰えなかった。後年、絵画だけでなく数多くの分野に精通し、万能の天才と謳われるレオナルドは、「私は無学の人である」と自ら語っていたそうだが、もし彼が高等教育を受け、大学まで進んでいたならば、どんな大学者になっていただろうかと考えることがある。神学者か哲学者か法学者か、はたまた医学者か?当時は、ラテン語を自在に読み書き話すことができなければ人並みの学者と認められなかった。彼の能力からすればそれは容易なことだったであろうが、初等教育しか受けていない彼は生涯ラテン語を自由に操ることはできなかった。しかし、今日の我々にとっては、彼は学者などにならない方がよかったのだ。特に、彼の画業に思いを馳せれば。幼時から画才を発揮した彼は、12~3歳の頃、父によりフィレンツェの有名な画家ヴェロッキオの工房の徒弟に出された。けれども、その技量はすぐに師匠を越えるほど目覚ましく、およそ10年奉公した後、一人前の画家として自分の工房を持つことになった。このように立派に成長しても、年端も行かぬうちに生き別れとなった母のかすかな面影は彼の記憶から消え去ることはなかった。ルーヴル美術館に所蔵され、世界の「3大名画」の一つとされる「モナ・リザ」は、実は、レオナルドが生みの母の面差しを、薄れゆく記憶を頼りに懸命に描き込んだものだと言われる。この絵は、もともとフィレンツェのある商人が妻の肖像画の作成を依頼し、描かれたものと伝えられているが、絵ができ上ってもレオナルドはこれを手放すことができなかった。彼はこの絵を死ぬまで常に自分の手元に置いておき、折にふれほんの少しずつ筆を加えていたという。幼い頃に別れた母がいつもそばにいて見守ってくれているような気持ちでいたのであろう。後年、レオナルドは若きフランス王フランソワ1世に招かれ、王の居城があったロワール川沿岸の町アンボワーズに館を与えられて、この上なく手厚い庇護を受けた。彼はこの地において3年間の穏やかな晩年を過ごし、67歳の生涯を終えたのである。名画「モナ・リザ」は彼の遺産として王の手元に残された。
 ラファエッロは、イタリア北東部の町ウルビーノに生まれた。父はウルビーノ公フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロの宮廷で活躍した画家であった。ウルビーノは、当時、文武ともに優れ「イタリアの光」とまで称された英明な君主フェデリーゴが統治し、古典発掘や美術振興を奨励していた公国で、小さいながらも注目すべき文化都市であった。ラファエッロは幼い頃から父を通じてルネサンス美術の雰囲気に触れることができたがゆえに、その画才が早くから芽を吹き始めたものであろう。彼は7歳のときに母を失い、その4年後には父も死去し、天涯孤独の身となった。今でも、ラファエッロの生家には、彼が12歳頃に描いた聖母子像が壁に飾られているが、この聖母は幼い時に亡くした母の面影を写したものだと言われている。彼は生涯に「小椅子の聖母」を始めとするおびただしい数の美しい聖母像を残しているが、レオナルドの場合と同じように、それらはひとえに母への強い思慕の念が描かせたものに違いない。父の死後、ラファエッロ少年はペルージャのある工房に弟子入りしたが、たちまちにして腕を上げ、20歳の頃、ついに芸術の中心地フィレンツェに行くことになった。彼は、ここでレオナルドとミケランジェロの影響を強く受け、数々の名作を描いている。幸いなことに、同郷の先輩である大建築家ブラマンテが、長年にわたり彼の面倒を見続け、彼をローマ教皇に引き合わせてくれた縁もあって、数年後には、彼はローマに赴くことになった。この時期はイタリア・ルネサンスの美術の中心地がフィレンツェからローマに移り行く時代なのである。この地で彼は、教皇にヴァティカン宮殿内部諸室のフレスコ画の制作を命じられ、有名な「アテネの学堂」を始めとする最高傑作を世に残した。さらに、彼はサン・ピエトロ大聖堂の設計主任という大仕事をブラマンテの死により引き継ぐことになった。大きな成果が期待されたが、惜しくも、完成を見ずして病に斃れた。37歳という若さであった。
 三人の中で最も長生きをしたのはミケランジェロであった。彼は、フィレンツェの行政官の子として、トスカーナ地方のカプレーゼに生まれたが、生後間もなく一家はフィレンツェに戻ったので、フィレンツェの出身と言ってもよいであろう。奇しくも、彼もまた、5歳の年に母を病で亡くしているのである。偶然にしても、三人ともに幼年時代に母との別れという辛い経験をしていることは、まことに不思議な共通点である。13歳のとき、彼は金細工師ドメニコの工房の弟子となったが、間もなく、彼の評判を耳にした当時のフィレンツェの統治者ロレンツォ・デ・メディチに召し抱えられた。メディチ家が収集した古代彫刻に学び、また、同家に集まる多くの芸術家や学者と接触することにより、彼はその才能を開花させていった。1492年、ロレンツォが没すると、メディチ家は追放され、フィレンツェは戦乱に巻き込まれた。彼は、一時ボローニャに難を逃れ、3年を過ごした後、ある枢機卿に呼ばれ、ローマに向かった。このとき、金に困っていたのか、彼は古代ローマの彫刻の贋作を作り、それを教皇庁に売りつけようとしたのだが、見破られてしまった。本来ならこっぴどく罰せられるところであるが、その偽造品の出来栄えがあまりにも素晴らしかったので許され、以後、教皇庁お抱えの彫刻家として彼はローマで活躍することになる。今でもサン・ピエトロ大聖堂に設置され呼び物の一つとなっているこの上なく美しい彫刻「ピエタ」を制作したのもこの頃のことである。数年後、戦乱も収まったので、彼はフィレンツェに戻り、有名な石像「ダヴィデ」を彫り上げた。この彫像は現在フィレンツェのアカデミア美術館に所蔵され、そのコピーがシニョリーア広場に置かれている。その後、ミケランジェロは教皇ユリウス2世に再びローマに召し出され、ヴァティカン宮殿システィーナ礼拝堂において、旧約聖書の「創世記」を題材とする天井画を完成させた。さらに、この教皇の死後、後継の教皇パウルス3世の要請を受け、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を描いた。これは彼の画業の最高傑作とされている。彼が天井画を描いていた頃、ラファエッロもヴァティカン宮殿で同時に別の仕事をしていたが、この二人が通路で鉢合わせをすることも時々あったらしい。売れっ子で華やかな生活をしていたラファエッロは、きらびやかな服装をし、いつも多くの弟子を家来のように引き連れているのに対し、気難し屋のミケランジェロには弟子も少ないし身なりもみすぼらしく、それに引け目を感じたのか、ラファエッロに皮肉なからかい言葉を投げかけていたという。ミケランジェロは筆をとっているときには、決して仕事場に人を入れなかった。ところが、彼が仕事を終えて家に帰った後、彼の描いた絵をラファエッロはこっそり見に来てひそかに勉強していたのである。後でそれを知ったミケランジェロは、「奴は俺の絵を盗んだ」と激しく怒ったという。彼の最晩年には、仕事の依頼もなく、孤独な生活を送っていたが、死の数日前まで「ピエタ」の制作を行っていたと伝えられている。彼は89歳の波乱に満ちた長い生涯をローマで閉じた。
 ミケランジェロの死後、その遺体は彼の故郷フィレンツェに送られ、市内のサンタ・クローチェ教会に埋葬された。彼の大変立派な墓が教会の入り口を入って右手すぐ近くの壁面にある。この墓碑は巨匠を師と仰ぐ著名な建築家ヴァザーリが心を込めて制作したものだという。この教会には、その外に、ダンテ、マキャベッリ、ガリレオ、ロッシーニなど、フィレンツェに縁のあった多くの重要人物の墓や記念碑が設置されている。
 ミケランジェロと同じくローマで逝ったラファエッロの墓所は、現在もローマ観光の名所となっている「パンテオン」の中にある。パンテオンは、古代ローマ時代に建造された 円形の神殿で、建てられた当時の姿をそのまま留めているほとんど唯一のものと言われる。西暦120年頃に、ローマ皇帝ハドリアヌスが、それ以前にあった神殿を建て替えさせたものである。以来、この石造りの巨大なドームは、およそ1900年の間、びくともせずに立ち続けてきた。このドームの直径はサン・ピエトロ大聖堂やフィレンツェの大聖堂のドームのそれよりもわずかに大きいという。さて、ラファエッロの墓碑は、入り口を入って正面突き当りよりやや左側の壁面の聖母子像の下に設置されている。この墓は、19世紀前半に発掘調査が行われ、画家の遺骨が確認されたが、その遺骨は一時的に一般公開されたということである。
 さてそれでは、レオナルドの墓は一体どこにあるのだろうか?前述のように、彼の終焉の地はフランスのアンボワーズであった。従って、彼の墓所はアンボワーズかその近辺にあるのではないかと考えるのは自然であろう。筆者もこのことが気になっていたので、かつてアンボワーズ城を見学した折に、現地の日本人のガイドに尋ねてみたことがあった。しかし、こんな質問には逢ったことがないものと見え、一言も返答がなかった。その後もずっとこの疑問が頭から離れず、いろいろ調べてみたが分からずじまいであった。ところが、あるとき、たまたま塩野七生女史の著作「ルネサンスとは何であったのか」を読んでいたら、レオナルドの墓に関する簡短な記事に出くわした。それによれば、レオナルドは死後聖フロランタン教会に埋葬されたが、間もなく戦乱の世となって、侵攻して来た兵士たちによりその教会は破壊され、彼の遺体は行方不明になってしまったという。この教会はアンボワーズの町かあるいはその周辺にあったのだろうと思われるのだが、よく分からない。また、この戦争は16世紀前半にフランスとドイツの間で行われた「イタリア戦争」であり、教会を破壊したドイツ兵は、「ランツクネヒト」と呼ばれ、当時凶暴なことで悪名高かった傭兵たちである。そしてまた、別の情報によれば、アンボワーズ城の一角に設けられたサン・テュベール礼拝堂の中にレオナルドの墓碑があるという。けれども、これは、塩野女史の記述が正しいとすれば、おそらくドイツ兵の教会襲撃よりも後に記念碑として造られたもので、ここには彼の遺骨はないと推定される。従って、レオナルドの真の墓は存在しないと言ってよいであろう。


(平成25年11月記す)

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