大航海時代の幕開け~ポルトガルとスペイン(平成30年浩洋会例会講演)

 大航海時代とは、15世紀初期からおよそ200年ほどの期間、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどのヨーロッパの強国が、海外貿易の拠点や植民地の造営を目的として、武装した船団を積極的に派遣し、未知の新しい領土を強奪していった時期を指す名称である。この時代は、ちょうどルネサンス盛期に重なっているが、当時、相次いでなされた地理学上の発見は、ヨーロッパの知識人たちの世界観を大きく揺るがせ、ルネサンス活動に重大な影響を与えた。文化の発展のみならず、それは、ヨーロッパの政治の在り方や経済の発達にも大変革をもたらした。大航海時代の到来は、広範な分野において近代世界に及ぼした深甚なる影響から見て、歴史上最も重要な出来事の一つであると言えるだろう。この時代のきっかけを作ったのは、ポルトガル、少し遅れてスペインであった。では、なぜ、ポルトガルとスペインが大航海時代の先駆けとなったのであろうか?この問いに答えるには、この両国とアラビア人との密接な関係から説明しなければならない。7世紀初期にアラビアのメッカにおいてマホメット(ムハンマド)によって興されたイスラム教は、瞬く間にその勢力を東西の地域に拡大した。イスラム教徒たちが軍事行動により次々に獲得していった領土は、東は現在のアフガニスタン周辺、西は北アフリカ一帯にまで及び、イスラムの大帝国が出来上がったのである。さらにこの帝国は、711年、ジブラルタル海峡を越えて、イベリア半島の西ゴート王国(後のスペイン、ポルトガル)までをも侵略し、半島北部を除く広大な地域をその版図に加えた。北部山岳地帯に逃避し立てこもっていた西ゴート人たちは、レオン、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルなどのいくつかの小さな王国を次々に立ち上げ、10世紀初め頃から、イスラム勢力より支配権を徐々に奪還し、キリスト教徒本来の領土を回復する活動を開始した。この活動をレコンキスタと言う。この国土回復運動が始まってから、これが完全に遂行されるまでには、さらに600年に近い歳月が必要であった。
 アラビア人は、古来、地中海やインド洋の航海によって他国との交易を盛んに行っていた。それゆえ、アラビア人は、地図製作や航海術などの実用的知識・技術を豊富に蓄積しており、それらをアラビア人の数学者・天文学者・地理学者たちが、さらに学問的にも発展させた。そのアラビア人たちが、イスラム教の旗印の下にイベリア半島を侵略し、何世紀にもわたり支配したのである。彼らの作り上げたイスラム大帝国は、当時のヨーロッパをはるかに凌ぐ高度な文明を発達させ、巨大な文化圏を形成した。ヨーロッパ人は、その華やかな文化に強く刺激され、それを懸命に学び取ろうとした。その文化圏に地理的に最も近かったイベリア半島の王国ポルトガル、カスティーリャ(後のスペイン)の人々が、アラビア人から種々の先進的な知識・技術を伝授されたのであった。彼らのうちのある者は、経験豊かなアラビア人の船乗りや商人の知識や技術を貪欲に吸収し、自己のものにしていった。こうして、後にポルトガル人やスペイン人が、他国に先駆けて、航海によって国外に乗り出して行く基礎が出来上がったのである。

 ポルトガル王国は、1249年にはスペインよりも早くレコンキスタを完了していたが、1385年にはカスティーリャ王国の支配を脱し、完全に独立することになった。それ以後、ポルトガルは、王子エンリケ(1394~1460、航海王子と呼ばれる)の極めて熱心な指導の下に、海外への進出に積極的な活動を見せるようになる。1402年から15年にかけて、カナリア諸島(現在スペイン領)を探検、1415年に北アフリカのセウタ(現在スペイン領)を攻略、1419年にはマデイラ諸島(現在ポルトガル領)を発見、1427年にはアゾレス諸島(現在ポルトガル領)を発見、1445年には、アフリカ大陸の西端ヴェルデ岬にまで到達した。しかし、ポルトガルは、これらの新しい土地を占領し発展させるほどの資力や人力を持っていなかったので、当初は移民・植民を行わず、貿易の拠点を作ることだけを主要な目的とした。そのために、ポルトガルは、西アフリカ海岸に沿って南下する探検を重視したのである。1487年から翌年にかけて、バルトロメウ・ディアスはアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。さらに、1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマがついに喜望峰を回り北上して、インド航路を発見、インドを始めとするアジア諸国との海路のみによる交易を可能にした。このように、ポルトガルは大航海時代における海外進出の先駆けとなった。
 エンリケ航海王子が海外への進出を積極的に図った主な目的は二つあった。その一つは、サハラ砂漠を横断してセウタにやって来る金、象牙、奴隷、香辛料などの商品の貿易ルートの源泉を探り当てることであった。しかし、そのためにアフリカの内陸にまで足を踏み入れることは極めて困難であると判断し、船によりアフリカ西海岸を南下する方策をとったのである。そして彼のもう一つの目的は「プレスター・ジョンの王国」のありかを突き止めることであった。プレスター・ジョンとは、12世紀以来ヨーロッパに伝説として広まっていた、東方のどこかに存在するというキリスト教国の王の名である。15世紀になってもまだこの伝説は消えていなかった。この王国は極めて富裕であって、ヨーロッパ危急の折には王が軍勢を率いて駆けつけ、イスラム教徒たちを追い払ってくれると信じられていたのである。この国は始めはアジアにあると言われていた。果たせるかな、13世紀初め、東方から大軍勢が押し寄せ、ペルシア(コラズム帝国)を攻撃し始めた。さてこそプレスター・ジョンの到来かと思いきや、それはモンゴル王チンギス・ハーンの侵攻であった。その後は、プレスター・ジョンの王国はアジアではなく、東アフリカにあると考えられるようになった。それはアビシニア(現在のエチオピア)であった。この地には、古来、コプト教(キリスト教のネストリウス派の流れをくむ宗派)が普及していたのである。エンリケは、ひょっとするとプレスター・ジョンかも知れないアビシニアの王と連携することができれば、北アフリカのイスラム教徒たちをキリスト教に改宗できるかも知れないと考えた。そのためにも彼は船によるアフリカ探検を企てたのであった。

 他方、スペインは、レコンキスタの完遂のため時間を要し、海外の領地獲得については、ポルトガルに遅れをとっていた。ここで、大航海時代の一つの頂点に立ったジェノヴァ生まれの船乗りクリストファー・コロンブスが登場する。彼の生い立ちや経歴については詳しいことは分かっていない。この時代、知識人の間では「地球」の概念は常識的なものだった。従って、彼は西方への航路をとればアフリカ南端を迂回せずにインドに到達するはずだという固い信念を抱いていた。彼は、フィレンツェの地理学者トスカネッリの説に基づいて、インドまでの距離と航海に必要な日数を独自に計算した。そして、西方への航海の企画を、まず、ポルトガル王ジョアン2世に提案したのである。この王は優れた知性の持主で、エンリケ航海王子の海外進出事業の熱心な後継者であった。けれども、彼は、アフリカを回るインド航路に固執したために、また、コロンブスの計算は間違っていると思ったために、この申し出を拒否した。そこで、コロンブスはこの企画をスペインの宮廷に持って行った。1485年頃のことである。当時のスペインは、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの王フェルナンドの結婚により、両国が併合されたもので、この二人の王の共同統治という形をとっていた。両王の当面の強い関心は、イベリア半島に残るイスラムの最後の砦であったグラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタを完遂させることにあった。そのためコロンブスは両王との謁見まで数年間も待たされたあげく、彼の企画は退けられてしまう。1492年1月、遂にグラナダ王国はスペイン軍の攻撃に屈し、あえなく降伏した。グラナダ城明け渡しの際には、それを見物する大群衆の中にコロンブスもいたという。数百年の年月をかけて、ようやくレコンキスタは達成されたのである。それを機に、コロンブスは協力者の支援を得ながら、根気よくさらに請願を続けた。しかし、両王は、長く続いたレコンキスタによる資金難を理由に、またもやそれを拒否する。落胆したコロンブスはスペインを立ち去り、フランスへと向かった。ところが、その直後、両王は、スペインは海外発展においてポルトガルと競合していて、しかもかなりの遅れをとっている現状を考え、この状況を一気に挽回するためには、コロンブスの計画に賭けてみるのもよいのではないかと思い直した。受け入れるべきだと言う重臣の強い勧めがあったという。両王は、失望してフランスへ向かっていた彼に早馬の使者を送り、追い駆け呼び戻させた。かくして彼の望みは叶えられたのである。彼は、同年8月に3隻の船を率いて南スペインのパロス港を出帆した。航海の途上で、恐怖にかられ引き返したいと要求する乗組員たちが騒ぎ立て、反乱寸前の危機もあったが、何とか10月には現在西インド諸島の一つサン・サルバドル島にたどり着き、上陸した。その後、周辺の島々を探査した際に、彼はキューバ島を発見し、これこそマルコ・ポーロの言うジパング(日本)ではないかと思った。さらにエスパニョーラ島北部沿岸をしばらく航行した後、帰途についた。1493年3月、8か月に及ぶ航海を終えて、コロンブスはスペインのセビリャに帰り、探検の成果をスペイン両王に報告した。彼は、その功績を称えられ、貴族に列せられた。その後も、彼はスペイン王国の援助のもとに4回にわたる航海を行い、3回目の航海では南米大陸にまで到達したのである。これらの地は、ヨーロッパにとっては、その存在すら知られていなかった「新世界」であったが、コロンブスは最後までこれらはアジアの一部分であると信じて疑わなかった。しかし、他の探検家たちは、やがて、この地はアジアではなく、今までの地図には載っていなかった未知の大陸ではないかと気づき始める。フィレンツェの船乗りアメリーゴ・ヴェスプッチもそうした一人であった。彼は南米大陸の東海岸を始めはスペイン船、2度目はポルトガル船により探検し、これはヨーロッパ人の知らなかった大陸であると結論した。そして、この大陸は彼の名に由来する「アメリカ」という名称で呼ばれることになる。コロンブスは、4度にわたる大西洋横断の航海によって、地理学上の発見という大きな貢献をしたと同時に、彼を支援したスペインは新発見の地を占有する権利を得ることができた。かくして、スペインは西方航路による開拓に本格的に乗り出し、新しい領土を次々に征服、占領して、植民を行った。間もなく、その勢力はポルトガルを凌駕し、南米・中米やカリブ海諸島の開発に主導的な役割を演ずることになった。

 スペインの探検家たちは、1509年、現在のコロンビアの海岸にダリエンという町を建設し、南米大陸探検の基地とした。1513年、スペイン人のヌニェス・デ・バルボアは、ダリエンを出発して、パナマ地峡の原生林を大変な苦難の末に横断し、そこに広大な海が広がっているのを目にする。太平洋の発見であった。デ・バルボアは海岸にスペインの旗を掲げて、この大海原は自国のものであると宣言した。もともと、スペインは交易を目指し、アジア特にインドを航海の目的地としていた。アジアはこの太平洋の彼方にあるということがようやく分かってきたが、アメリカ大陸を抜けて太平洋に出る水路はまだ発見されていなかった。ヨーロッパから西方航路をとってアジアへ達するには、アメリカ大陸という北極海から南極海にまで長々と横たわる巨大な障害物が存在していたのである。ポルトガルの貴族フェルディナンド・マジェランは宮廷から冷遇を受けていたので、隣国のスペインのために仕事をしようと決意した。彼は、南米大陸をできるだけ南へ行けば、太平洋へ抜ける航路が見つかるのではないかと考えていた。もし太平洋へ出られれば、かつてダ・ガマがアフリカ大陸を迂回してインドへ到達したのと同様に、東インドまで簡単に航海できると確信していた。そこで、1518年、彼はこの計画を当時のスペイン国王カルロス1世に提示し援助を求めた。王は、それに支援を表明したが、相次ぐ戦いによる財政難のため、彼に与えられたのは5隻の老朽船と280人のあぶれ者の乗組員だけであった。翌年9月末、この船団を率いて彼は大西洋を横断し、現在のブラジル北東岸に到達した。さらに大陸沿岸を南下し、太平洋への水路を探索したが、成果は得られないまま、とうとう大陸南端に近いパタゴニアまで来てしまった。この地で冬の5か月間を待避し春を待ったが、その間、1隻の船を難破で、もう1隻を脱走で失った。翌1520年8月にマジェランは再び船出した。彼らは、両側が岩壁から成る曲がりくねった狭いフィヨルドに入った。波風激しく危険な水路を、嫌がる水夫たちをなだめたり脅したりしながら前進させ、38日後に波静かな大海に出た。太平洋であった。この水路は海峡であった。後に、彼の名を取りマジェラン海峡と呼ばれることになる。南米大陸は南極大陸(当時も南極大陸の存在は知られていたらしい)と繋がっていないことをマジェランが実証したのである。
 さて、太平洋に出たマジェラン一行は、大陸西岸を北上した後、西方に進路を変え、アジアを目指した。しかし、運の悪いことに、彼らがとった航路は島が全く無い海域であった。何か月も飢餓に苦しめられながらも、1521年3月、ようやくグアム島にたどり着き、水と食糧の補給ができた。その後、彼らはフィリピン群島のセブ島に行き、先住民の酋長に歓待された。ところが、対立する他の部族との戦闘に巻き込まれる羽目となり、哀れマジェランは命を落としてしまったのである。生き残った乗組員たちは、3隻の船の一つを廃棄しトリニダード号とビクトリア号の2隻に船員を振り分けて、航海を続け、モルッカ諸島のティドール島に上陸した。現在インドネシア領のモルッカ諸島は、当時ヨーロッパで極めて珍重され、法外な高値で売買されていた香辛料であるクローブ(丁子)とナツメグの産地であった。これらはモルッカ以外の土地では全く生育していなかった。その島で彼らは大量のクローブを買い付け、船に満載して、故国を目指した。ところが、トリニダード号は風に押し流され、モルッカ諸島の別の島に漂着してしまった。そして、その島に1512年以来住み着いていたポルトガル人に捕えられたのである。驚くべきことに、ダ・ガマのインド航路発見以来わずか10数年にして、早くもポルトガル人は、これらの香辛料採取のため、インドを越え、さらにマラッカ海峡を通り抜け、モルッカ諸島にまでやって来て基地を建設していたのである。一方、ビクトリア号にも苦難が待ち受けていた。ポルトガルの勢力圏では全く寄港することができないので、水や食糧の補給に苦労した。栄養失調や壊血病に苦しみながら、喜望峰を回って、1522年9月8日、やっとのことでセビリャに帰ることができた。出航からほとんど3年にも及ぶ驚くべき大旅行であった。ビクトリア号の船長セバスティアン・デ・エルカノは、初めての世界一周航海者という歴史に残る栄誉を与えられている。それから3年後、モルッカでポルトガル人の捕虜となっていたトリニダード号の乗組員の生き残り4人が解放され、故国に帰った。彼らを加えて、マジェランが率いて出発した280人のうち、生還できた者はわずか35人という過酷な航海であった。余談ながら、ビクトリア号が運んで来た香辛料を売った代金は、マジェランの探検に費やされた総経費を賄うに充分であったという。

 ポルトガルとスペインの間で、ローマ教皇の承認の下に、取り交わされたトルデシリャス条約(1494年)によって、南米大陸においては、ポルトガルは現在のブラジルを、スペインはそれ以外の部分を占有することになっていた。太平洋を発見した前述のデ・ バルボアの副官であったスペイン人のエルナン・コルテスは、500人の部下を率いて、現在のメキシコの地域で約300年の間栄えていたアステカ帝国に攻め入り、この地を征服した(1521年)。また、これもスペイン人のフランシスコ・ピサロは、現在のペルー、ボリビアにまたがる広大な領域を支配していたインカ帝国に、わずか180人ほどの兵をもって攻め込み、この大帝国を滅亡させたのである(1532年)。この二人の残虐な征服者が両帝国を滅亡させるまでには、長期にわたる複雑な経緯がある。本来なら、少数の兵しか持たない彼らの勝利はとうてい不可能であったと思われるが、この征服が成功した理由は、彼らが先住民族の間の派閥争いを巧みに利用したこと、彼らが使用していた武器(剣、銃、甲冑)や馬が大きな威力を発揮したこと、さらに一行が持ち込んだ天然痘やインフルエンザなどの病気が無抵抗な先住民の間に大流行し、急激に彼らの人口が減少していったことなどである。このように、大航海時代を通じて、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどの強国によって、アフリカ、南米、中米、北米、カリブ海の島々、そしてアジアの各地に数多くの植民地が作られ、暴虐な行為がまかり通った。それによってヨーロッパ諸国には莫大な富がもたらされたが、その地に先祖代々平穏に暮らしていた幾多の先住民は、ヨーロッパ人の襲来により甚大な被害を蒙ったのである。例えば、参考文献4を開いてみればよい。そこには、スペイン人が征服地で先住民に対して行った数知れない極悪非道の所業が、述べられている。どこの植民地においても人道に背く残虐行為が絶えなかった。各国の運営する植民地はこれら先住民の大きな犠牲の上に繁栄した。やがて、それらは徐々に自身の力を蓄えて、宗主国に反抗するようになっていった。ついには、宗主国との戦いに勝って、独立するものも現れ始める。アメリカ合衆国はその一例である。初めはイギリスの植民地であったが、次第に強国となり、独立戦争に勝利し独立国となった。そのアメリカ合衆国までもが、ヨーロッパ相手の植民地奪取競争に加わることになるのである。その後、この国は隆盛を極め、世界第一の大国となった。歴史を顧みるとき、大航海時代が、現代に至るまで世界の国々の文化・政治・経済・外交・軍事など種々の分野において、いかに大きな影響を与えてきたかをつくづく考えさせられる。

参考文献
1. ジョン・R・ヘイル(別枝達夫監訳) 「探検の時代(ライフ人間世界史)」 タイムライフインターナショナル
2. エドウィン・アーリ他(増田義郎訳) 「南アメリカ大陸歴史地図」 東洋書林
3. 堀米庸三 「中世の光と影(下)」 講談社
4. ラス・カサス(染田秀藤訳)「インディアスの破壊についての簡潔な報告」 岩波文庫
5. ミシェル・ルゲーヌ(大貫良夫訳) 「コロンブス」知の再発見 創元社
6. ジャイルズ・ミルトン(松浦伶訳) 「スパイス戦争」 朝日新聞社
7. マージョリー・シェフラー(栗原泉訳) 「胡椒」 白水社
8. 山田篤美 「黄金郷伝説」 中公新書
9. 横井祐介 「大航海時代大全」 株式会社カンゼン
10. 川成洋 宮本雅弘 「スペインの歴史」 河出書房新社

(平成31年3月10日記す)

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