特別寄稿 「ある数学書の物語」

神戸大学 理学部数学科 准教授 渡邉 清

 日本では鎌倉幕府が開かれ北条政子が活躍し、アジアの大陸では、ジンギスカンが暴れまわっていた1220年頃のある日、神聖ローマ帝国の若き皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)が貿易都市ピサにやって来た。世界の驚異とも呼ばれた、学問好きの皇帝は、早速ヨーロッパに初めてアラビア数字を紹介した「算板の書」(1202年)で有名になった数学者のレオナルド(1170-1250)を召し出し、いくつかの問題を出した。その内の一つが、次の問題であった。

 ある数の平方数から5を引いても、5を加えても、 なお平方数であるような数を求めよ。

勿論、ある数は無理数ではなく有理数の範囲で求めなければならない。つまり、有理数の平方数からなる三つの数の列で公差が5となるものを求めよ、と言うことである。 是非、皆様も考えてみると面白いと思いますが、これはそんなに簡単な問題ではないことが分かる。それどころか、後に、17世紀の偉大な数学者フェルマーが 示したことであるが、公差が1のときは、答えは存在しない! 実は、ある自然数を公差とする有理数の平方数の三つ組が存在するかどうかを決定することは、現代数学の最先端の結果をすべて使っても、まだ完全には解決されていないのである。

 さて、レオナルドは、その場で即座に答えたと言うが、前もって問題が出されていて、それを研究していたものと思われる。しばらくして、彼は、その研究を纏めて「平方の書」という本を1225年に著し、皇帝フリードリヒに捧げた。これは、ギリシャ時代以来、長い眠りの中にあったヨーロッパ数学界にとって画期的な研究であった。しかし、その内容はその当時の人々には難し過ぎて理解されず、忘れ去られそうのになった。

 なお、上の問題は、250年頃活躍したアレキサンドリアのディオファントスに源があると思われる。彼は、方程式の数よりも未知数の数の方が多い不定方程式と呼ばれる方程式の、有理数解を求めることを研究したことで知られる偉大な数学者であった。彼の著書「数論」の中に、公差が720の自然数の平方数からなる三つ組が載っている。彼は、直角三角形の辺の長さからなる自然数の三つ組(ピタゴラス数)の研究から、この例を得たものと思われる。

 その後、ギリシャ文化は、アラビアに継承され、研究された。そして、972年より以前に書かれたアラビアの文献にまさにレオナルドに出されたその問題が載っている。すなわち、

与えられた自然数Nに対し、ある数の平方数からNを引いても、Nを加えても、なお平方数であるような数を求めよ。

ただし、答えは自然数の範囲で求められているようだし、答えのない自然数Nが存在することも知られていなかったと思う。それでも30個程の答えが、書かれているようだ。
さらに、他のアラビアの文献にも同様の問題が載っている。つまり、レオナルドは、アラビア文化圏の何処かでこの問題を学んだ可能性はある。しかし、それをきちっとした数学に仕上げたのは、彼を措いて他にはいない。なお、レオナルドは上の自然数Nを合同数とよんだ。今日では、有理数の範囲で解があるとき、合同数と呼んでいるので、彼の呼び方よりは広い範囲の自然数をそう呼ぶ。例えば、5は合同数であるが、レオナルドの意味では合同数でない。


 さて、「平方の書」の運命であるが、300年程の月日が流れて、イタリアにルネサンスが起こる。その頃、イタリアの各地で、数学を教えながら生活していた算法教師ルカパチョリ(1445-1517)がいた。彼は、その教育の為に20年間もかけて、あらゆる文献を集めて本を出そうとしていた。折しも、時は、グーテンベルクらによる活版印刷の技術が開発された直後であり、紀元前300年頃書かれたユークリッドの「幾何学原論」が出版されたばかりであった。1494年、パチョリはようやく600ページにも及ぶ本を完成させ、 出版した。それが「算術、幾何、比例論大全」であった。この本は、「原論」の次に活版印刷された数学書であり、当時の知識人にとっては当然のラテン語ではなく、トスカナ地方のイタリア語で書かれた為、多くの人々に広く読まれた。そして、この本の中に、レオナルドの「平方の書」から抜き出したと思われる多くの記述があり、そしてそのことをコメントしていた。実は、そのお陰で「平方の書」の存在が忘れ去られずに済んだのである。

 なお、パチョリは、あの有名なレオナルドダビンチ(1452-1519)とも親交があり、1509年に幾何学に関して書かれた「神聖な比例について」という本の挿絵を描いてもらったようだ。また、「大全」の中で、三次方程式はまだ解けていないと述べられていたことが、あの有名な三次方程式解法の物語の始まりとなった。(宮原先生の論説参照。)

 150年程後、フランスの偉大な数学者フェルマー(1601-1665)は、レオナルドの本のことはまったく知らずに、ディオファントスの「数論」の研究から、次の結論を得た。

自然数を辺に持つ直角三角形の面積は、平方数ではありえない。

実は、この言明は、1は合同数ではない、と言うことと同じであることがすぐに分かる。また、自然数を辺に持つ直角三角形の面積は、レオナルドの意味の合同数である。そして、この言明
「1は合同数ではない」
レオナルドは、「平方の書」の中で述べ、証明を試みているがまったく歯が立たなかった。フェルマーは無限降下法を編み出し、この証明に成功した。
ただし、レオナルドは、直角三角形との関係には気付いていなかったようであるが。さらに、この言明は、あの有名な「フェルマー予想」の指数が4の場合とほとんど同じことを言っている。つまり、合同数の判定の問題は、「フェルマー予想」の兄弟でもあったのである!

 さらに100年後、偉大な数学者オイラー(1707-1783)はその著書「代数入門」(1770年)の中で、5や7が合同数であることを、そうとは述べていないが、示している。

 そして、18世紀の終わり頃、歴史家のコサリは、パチョリの「大全」を読み、レオナルドの「平方の書」の存在に気付く。あちこちを探し回ったが、その本を見つけることはできなかった。なにせ600年近くも前の手書きの本であるから、存在すら危ぶまれる。仕方がないので彼は、「大全」のデータから「平方の書」はこんな本ではなかったかと再構成したほどである。

 ところで、レオナルドのことを、現在ではフィボナッチとも呼ぶが、これは1838年に数学史家のリブリに依って、中世のその頃は、ボナッチ家の後裔ということで、この様に呼ばれていたのではないかと、名付けられたものである。あるいは、レオナルドはフィボナッチと呼ばれて、誰のことかと驚いているかも知れない。


 その後、さらに半世紀が過ぎた。19世紀の中頃、中世史について名高い学者だったボンコンパーニが、再び「平方の書」を探し始めた。そして、大変な苦労の末、ついにミラノのある図書館の片隅からホコリに塗れた一冊の「平方の書」が発見された!手書きのこの本が、生き残り発見されたことは、奇跡のようなことと言えるかも知れない。1862年、彼はラテン語で書かれているこの「平方の書」を出版した。そして、この合同数の問題は、その頃ブームのようになった。問題は誰にでも分かるから、多くのアマチュアが研究に参加したようだ。しかし、本質的な問題はとても難しくほとんど進展しなかった。 小野藤太(1870-1916)という明治大正期に活躍した日本の数学者の名も見られる。彼は、オイラーの「代数入門」を日本語に翻訳する過程で、この問題に興味を持ったものと思われる。17歳で小学校の校長先生に成ったり、とても面白い経歴の持ち主だ。 なお、「平方の書」は、1952年フランス語に翻訳され、さらに1987年シィグラーにより英語に翻訳された。


 最後に、合同数の問題のその後について一言。この問題が、1970年代に、楕円曲線の有理点の問題と関係することが分かり、現代数論の多くの道具が使えるようになり、飛躍的に発展した。しかし、今でも完全な解決には至っていない。ただし、タネルによる合同数の研究が、ワイルスの有名な「フェルマー予想」の解決の原型の一つを提供しているように、私には思われる。この合同数の判定問題には、現代数学の最大の問題の一つである バーチ*スイナートンダイアー予想が立ちはだかっている。(解決すると一億円がもらえます!)
さらに、コンピュータの発展もこの研究に大きな寄与があった。小さな数、例えば277は合同数であるが、これを面積に持つ最小の有理数辺直角三角形の辺の長さは、33桁以上の数を分母、分子にもつ有理数の組からなることが計算より分かる!一千年以上も前の問題が、現代数学の最先端の道具を使って解かれつつあるのを眺めるのは、なかなか爽快な気分がします。

 なお、将来、これらのことを纏めて本を書きたいと願っていますが、読者の対象がうまく確定できず悩んでいます。もしも、その書物が出版されました折は、どうぞご一読、お願い申し上げます。

終り  

(平成21年9月)
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